「珠洲焼創炎会展」レポート&作家インタビュー

レポート

2024.05.23

「土に触れたい、つくりたい」創作への炎は消えない

2024年5月3日(金・祝)から5日(日・祝)の3日間、金沢「しいのき迎賓館」にて「珠洲焼創炎会展」が開催されました。「珠洲焼」はその名のとおり奥能登・珠洲市を中心につくられている焼き物です。2024年元日に発生した能登半島地震では、窯の倒壊をはじめ、作家達も甚大な被害を受けています。
展覧会では、地震の被害を免れた1,200点以上の珠洲焼を展示販売。今回は展覧会初日の様子を、珠洲焼創炎会会長の篠原敬さん、メンバーである宮脇まゆみさんのインタビューを交えてお届けします。

しいのき迎賓館にて開催された「珠洲焼創炎会展」
ギャラリーの風景
被害を免れた1,200点余りを展示

黒々と輝く、幻の古陶・珠洲焼

珠洲焼は、平安時代末から室町時代後期にかけて、珠洲郡内で生産された焼き物。その制作方法からも「須恵器(※)」の系統を継ぐとされています。中世日本を代表する焼き物のうちのひとつに数えられ、日本列島の四分の一を商圏とするまでに隆盛しますが、戦国時代に忽然と姿を消しました。
そんなミステリアスな歴史と、焼き物としてのプリミティヴさから「幻の古陶」とも呼ばれ、人々を惹きつけ続けてきました。そして1970年代に珠洲市の貴重な伝統工芸として、約400年の時を経て復活を遂げます。

(※1)須恵器…須恵器は古墳時代中期から平安時代にかけてに見られる青灰色の焼物。制作技法は朝鮮半島南部からの渡来人によって伝えられたとされる。

「想像もつかない」珠洲焼に魅せられて

「創炎会」は、そんな珠洲焼に魅せられた作家たちによる陶工集団で、現在39名が所属しています。宮脇まゆみさんは、創炎会メンバーで、女性珠洲焼作家として活躍するお一人。ご主人の実家がある能登町に「しこたろ窯」を設け、珠洲焼の制作を続けていました。

宮脇まゆみさん。金沢市出身。1997年「珠洲焼研修塾」入塾し、1998年「珠洲焼陶芸センター」入所。2009年に能登町に「しこたろ窯」築窯。

「元々、土を触るのがすごく好きだったんですね。なので金沢で働いている時に陶芸教室に通っていたんですが、ある時大工である叔父がいつも端材を運んでいた珠洲焼の窯に私も連れていってくれて。そこで窯焚きというものに初めて立ち合わせてもらったんです。それがものすごく楽しくて。
薪窯って、焼き上がって出てくるものが毎回違うし、全く想像がつかないんですよ。窯の中でも火がどう動き、灰がどう舞うのかは予測不可能で、同じ窯でも場所によって全然違う仕上がりになる。なので窯を開ける瞬間は、いつもゾクゾク・ワクワクします。

そして珠洲焼の『まさに土そのもの!』という素材感にも惹かれて。珠洲焼は釉薬をかけないので、窯の中の灰による自然釉のみ。土が好きで陶芸を始めた私は、“土の温かみ”や“素朴さ”がそのままに感じられる珠洲焼に、すっかり魅了されてしまったんですね。それで仕事をやめて、1997年に珠洲に行きました」

宮脇さんの作品

珠洲の土から生まれる、多様な「黒」

珠洲焼の特徴の一つが、独特の質感をたたえた「黒」。この色を引き出すためには、「珠洲の土」でなければいけないのだと宮脇さんは語ります。

「珠洲で採れる土は鉄分がとても多いんです。その土から作った作品を、空気を入れないようにして還元炎焼成(※)で焼き締めることでこの色が出る。他の地域の土ではここまで黒くならないと思います。

(※)還元炎焼成…窯の扉を閉め、空気供給を不足気味にすることで粘土や釉薬に含まれる鉱物から酸素を奪い(還元)、特有の色を発色させる焼成方法。

それに、ここに並ぶ皆さんの作品でもご覧いただけるように、一口に『黒』といっても、全部違うでしょう。珠洲焼は分業制になっていないので、『粘土屋』さんがないんです。だから、作家それぞれが、自分で土を準備する。ちなみに私は元々瓦屋さんが持っていた山の土を使わせてもらっています」

元日を襲った能登半島地震

珠洲は2022年から2度、震度6弱の地震にも見舞われています。ようやく復活の兆しが見えてきた矢先の2024年元旦、「令和6年能登半島地震」が起こりました。

「年末は能登町の実家に帰っていたんです。神棚を綺麗にして、お餅をついて、榊を備えて‥。それはいつもと変わらない、大晦日の風景でした。ただ息子の受験の関係で、私はその日のうちに金沢の自宅に戻っていたんです。そしたら元日に地震が起きて。能登にいる皆がとにかく心配で、でも電話も繋がらなくて…どうしたらいいかもわからない、もうパニックの状況でしたね」

自分たちで作ったものは、また自分で直せる

県内で観測史上初となる震度7を記録した能登半島地震。能登町にある宮脇さんの窯も地面からひび割れ、激しく崩壊。窯場にある炭や薪を地域の人に提供しようと思っても、危険で近づくこともできない状況だったそう。

「窯の光景をみた時は、ショックでしたね。たくさんの人たちに手伝ってもらいながら、自分たちで作った窯だったので。『どうしよう』という気持ちもありましたけれど、同時に『窯どころではない』という目の前の状況もあって。家のこと、そしてみんなの生活をまずなんとかしなければいけない。だから窯のことを心配できるようになったのは、本当に最近のことなんです」

「でも、自分たちでつくった窯だったからこそ『積めばまた直せる』という気持ちがどこかにあったんです。買った物ではなく、自分たちで一つ一つレンガを積んだ手作りの窯だから、また直せばいい。それよりも珠洲焼を続ける上で重要なのが“周囲の人々の生活”です。珠洲焼って4、5日間窯から濛々と煙を出し続けるので、本当に周りの方のご理解と応援がないとできない焼き物なんですよ。だからこそ、やはりまず第一に、住民の方の安全と、生活の安定だと思っていました」

「泣きながら、ものは作れないから」

今回の展覧会で意外だったのが、「作家さん達の表情が、思いのほか明るい」ということ。もちろん宮脇さん生来のお人柄あってのことながら、連日の過酷な状況の報道とのギャップに、正直に言って驚きました。展覧会も、もっと重々しい空気なのかと‥。すると宮脇さんからこんな言葉が。

「みんな元気ですよ。だって寂しい気持ちで、泣きながらものは作れないじゃないですか。やっぱり楽しくないと、ものは作れないです。地震後、みんな土に触れなかった期間も長かったので、そうするとやっぱり触りたいし、作りたいと思う。今日こうしてみんなの作品が並んだのを見ていても『あれもいいな』『これもいいな』とワクワクしてきます。そしてまた『あぁ作りたい』って気持ちが湧き上がってくるんですよね」

「創炎会」会長である篠原敬さんも、「能登の人はたくましいですよ」と笑います。篠原さん自身珠洲の自宅を大規模半壊で失い、昨年作り直したばかりの窯も崩れ落ちたにも関わらず。

「去年窯づくりをした時、全国から70人以上の人が集まってくれたんですよ。みんなでワイワイやりながらの共同作業が、楽しかったんですよね。あれをまたやれるんだと、思うようにしています。実際『また行きます』と言ってくれる人がたくさんいて、本当にありがたいですね。確かに現実のいろんなことを考えると大変なんだけど、この状況すらもできる限り“楽しんで”やりたいなと」

「珠洲焼創炎会」会長の篠原敬さん(珠洲焼遊戯窯)。「珠洲焼の魅力は、立ち姿の美しさ。非常にシンプルで中世の焼き物の力強さがあります」

応援の声があったから、前を向けた

展覧会当日、10時の開場とともに、列をなしていた人々が一斉に会場に流れ込み、作品の一つ一つをじっくりと眺め買い求める姿が。そこからは「珠洲焼を、能登を支援したい」という人々の強い想いが感じられました。

開場と同時に、来場者で溢れかえるギャラリー

「こうして珠洲焼を応援していただけるのは、もう本当にありがたいですね。やっぱり地震当初は『もうだめだ』と思っていたので。けれど、全国の皆さんからたくさんの応援と支援、そして声をいただいたことで、前を向く気持ちにもなれたんです。そして輪島塗はじめ、能登の他の伝統工芸の皆さんもめちゃめちゃ頑張っている。その姿にもすごく勇気をもらっています。

だから私たちも、自分たちが動きだすことで地域を少しでも元気にできたらなと。私は珠洲に来て、本当にたくさんの方に応援してもらって今があります。今度はそのご恩を、地域に返していきたいと思っています。(宮脇さん)」

「土」と「炎」という自然の力から「想像できない作品」が生まれる珠洲焼。能登での大地震という、誰もが想像しなかった形で見せつけられたのもまた「自然の力」。それすらも、ありのままに受け止めようとしている珠洲焼作家たちの姿が、そこにはありました。

なおWEBサイト「金沢市デジタル工芸展」内にて、珠洲焼の作家・作品を紹介する特設ページも開設されております。珠洲焼創炎会会員のうち9名の作家 ・20作品を新たに掲載(今後、順次追加予定)。篠原敬 珠洲焼創炎会会長のインタビュー動画も掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

(取材:2024年5月3日)

記事一覧へ

ほかの記事

OTHER ARTICLES

pagetop