インタビューvol.34_沢田滋さん(共栄セラミック株式会社 代表)
インタビュー
2026.03.30
変化の時代をサバイブする「やってみたら、できるんじゃない?」精神
【目 次】
・ものづくりを支える、ものづくり
・「瓦の釉薬」から「窯」への事業転換
・独学で始めた電気炉の修理・製造
現場で生まれてくるアイディア
・作家の声から生まれた「新たな溶解炉」
・「やってみたら、できるんじゃない?」精神で
生み出すイノベーション
・いつも「作家の近くにいる」存在であること
・作家の制作を守る“ライフライン”としての使命
・工芸を取り巻く時代の変化
・工芸の“地域性”を成立させている生態系
・変化の波の中で「楽しみながら」続けていく
陶芸やガラスの制作において、欠かせない“インフラ”であり、また作家にとっても作品が生まれ出る“特別な場”でもある「窯」。今回は金沢市で工芸用の電気炉の製造からメンテナンスまで行っている「共栄セラミック株式会社」代表の沢田滋さんへのインタビューです。
「窯で困った時は沢田さん」と気軽に電話がかけられる柔和な人柄と、作り手に寄り添う仕事ぶりに信頼が寄せられており、個人作家のみならず北陸の公的施設や大手企業からも窯にまつわる相談が絶えません。今回は、同社のこれまでの歩みや、作家と共同開発したオリジナルの溶解炉について、そして工芸を取り巻く環境変化への対応など、多岐にわたってお話をうかがいました。


ものづくりを支える、ものづくり
雪が降りしきる2月某日、金沢市粟崎にある「共栄セラミック株式会社」を訪ねた。県内唯一の電気炉メーカーとうかがっていたので、機械の轟音が響きわたるような“工場”を想像していたが、中は驚くほど静か。数名のスタッフが黙々と、しかし休むことなく手を動かしている。
共栄セラミックの電気炉は、大量生産品ではなく一つ一つ職人の手で作られており、作家の要望に応じてオーダーメイドも受けている。そのため「工場」というよりも「工房」といった表現の方がふさわしいのかもしれない。

ノートにペンを走らせてデッサンや数値など細かく記録しているのは、同社ベテランスタッフの草柳さん。元々はプロの料理人という異色の経歴で、器への興味の高まりから「自身でも作品をつくりたい」と石川県立九谷焼技術研修所に入所したところ、窯のメンテナンスで出入りしていた沢田さんと出会ったそう。
「自分でものをつくる」立場から、名前の出ない「ものづくりの裏方」へと立場が変わったことに物足りなさは感じないかと尋ねると「表とか裏とか、そういう見方をしたことはないですね。自分にはこれ(窯)しか見えてないから。これをいかに追求していくかしか頭にないので」と束の間手を止め応えてくれた。工芸はこうした無数の、そして無名のものづくりによって支えられている。

「瓦の釉薬」から「窯」への事業転換
高い天井を見渡しながら「この工場では、元々は瓦の釉薬を製造していたんですよ」と代表の沢田さん。ほら、と指された方向を見ると、釉薬を混ぜる巨大なミルなどの機器もそのままに残されている。
共栄セラミックの創業は1986年。沢田さんの父が立ち上げた会社で、福井・石川・富山の北陸三県に加えて、新潟の瓦屋にまで釉薬を届けていたという。「瓦の釉薬」から現在の「電気炉」事業の間には、ずいぶんと飛躍があるように感じられるが…?
「端的にいえば“時代の変化”ですよね。瓦をつくっているメーカーが、年々減少していって。僕が入社した当時は20社ほどあった瓦屋が、今では北陸と新潟の4県合わせても、3社しか残っていません。うちの仕事も減り続けて『もう釉薬では食べていけない』となった時、『今あるつながりの中で、何とか仕事をつくれないか』と考えて始めたのが“窯の修理”でした」

独学で始めた電気炉の修理・製造
現場で生まれてくるアイディア
確かに、瓦も窯で焼き上げる「窯業(ようぎょう)」。以前から釉薬の配達とあわせて、依頼があれば窯の修理部品なども一緒に届けていたことはあったそう。部品の流通経路は把握していたとしても、「窯の修理の知識」はどのように身につけたのかと尋ねると「独学ですね」と、こともなげに話す沢田さん。
「予備知識ですか?全くありませんよ(笑)。僕は文系の商学部出身ですし、最初は自分がやっていることが正しいのかどうか、右も左もわからない状態でした。けれど、それでも食べていかないといけないでしょう。だからもう必死でしたよね」

窮地に追い込まれ、ある意味“苦肉の策”として始めた「窯の修理」だったが、思いのほか好評だった。
「窯の修理ができる業者が、県内にはほぼなかったんですよね。メーカーや修理業者は大抵県外なので、そこに依頼するとタイムラグが生まれるし、交通費などの費用もかさみます。窯が使えないと制作がストップすることになるので、遠方に依頼していては不便ですよね」
業者不在だった電気炉の修理は、石川でものづくりに携わる人々にとっても助けとなり、依頼は徐々に増加。現在では個人作家から九谷焼の窯元、美術大学などの公的機関、そして地元の大手陶磁器メーカーからも窯の修理の依頼が日々舞い込んでいる。

そして修理事業だけでなく、現在同社のメイン事業となっているのが「オリジナル電気炉の製造」だ。
「修理で何度も電気炉を解体しているうちに、段々と“窯のつくり”が分かってきたんです。故障の原因として、弱い部分に不具合が生じていることが多いので『この部分をもっと強くした方がいいのでは?』とアイディアが浮かぶようになってきて。そうこうカスタマイズしているうちに、いつしか自社オリジナルの窯を作るようになっていた、という流れです」

作家の声から生まれた「新たな溶解炉」
電気炉の中でも、同社が主力とするのは「吹きガラス用の電気炉=溶解炉」だ。陶芸用の電気炉は全国でも製造メーカーが多く、価格競争でもしのぎを削り合っているという。「うちのような後発のメーカーがその中で戦うのは厳しいですよね」と沢田さん。対して、ガラスの溶解炉メーカーは全国でも2〜3社と、いわば“ブルーオーシャン”。小規模メーカーの生存戦略としての選択も、そこにはあった。
現在、共栄セラミックの看板商品ともなっているのが「有永タイプ」と呼ばれる溶解炉のシリーズ。ガラス作家・有永浩太さんとの共同開発で約10年前に生まれたもので、コンパクトなサイズ感と溶解炉の火を必要に応じて落とすことができる点が特徴的。ガラス作家の独立を阻む障壁となっていた「個人で溶解炉を所有するハードルの高さ」をこの溶解炉が見事に解決し、今や全国に広がっている。

「やってみたら、できるんじゃない?」精神で
生み出すイノベーション
「金沢卯辰山工芸工房で付き合いがあった有永さんから、ある時『自身で使用する使い勝手のいい窯をつくりたい』とご相談を受けたんです。有永さんが窯のイメージデッサンを描いてこられて、それに対して私がフレームや仕組みを考えて提案する。そういうやり取りを重ねて出来上がったのが、この有永タイプの溶解炉でした」
従来の溶解炉は、大型で高額。かつ「一度火を入れたら、365日・24時間窯の火を焚き続けなければならない」が常識とされていた。しかしなぜ、地方の小さなメーカーが、何十年と変わることがなかった溶解炉にブレークスルーを生み出すことができたのか?
「技術的には、そんな難しいことはないように感じました。相談された時も“多分できますよ”と答えましたし」とあっさりと応える沢田さん。「できないというよりも、誰もやろうとしなかっただけ」と、以前のインタビューで作家の有永さんが話していたことを思い出す。

「“窯の火を落とせるようにした”という点も、有永さんが窯を使う中で『ゆっくり温度を下げればできるのではないか?』と思いついて、『やってみたらできた』ということなんですよね。もちろん、適応できる素材を予めこちらで選んでいたということもありますが、そういうチャレンジをしてみる人がこれまでいなかったんですよ。ずっと『できない』といわれていたし、失敗すると中の坩堝(るつぼ)から全部交換しないといけないというリスクもありますから」
やってみたら、できた。画期的なイノベーションの誕生秘話としては拍子抜けするようなエピソードだが、むしろこういったファジーな挑戦の中からしか、新しいものは生まれてこないのかもしれない。
「もし私が理系の大学出身で、大手メーカーで経験を積んでいたら、この溶解炉はできていなかったかもしれませんね。『そういうのは普通できません』って。僕らは『やってみたら、できるんじゃない?』という、ノリと勢いでやってきましたから(笑)」

いつも「作家の近くにいる」存在であること
プロトタイプの完成から約10年。有永タイプの溶解炉は改良を重ねながら現在全国に20基ほど広まっている。窯は作家にとっても覚悟を決めて購入する高価な代物ゆえに、今までは「数年に一基売れればいい方」だった中で、異例のヒット商品となっている。
「やはりこの窯のポイントは、“作家自身が使いやすい”という視点から作られていることです。有永さんが自分が使いやすいものを追求したものだからこそ、これだけ多くの作家さんにも受け入れられているのだと思います」
そこには沢田さんが、いつも“作家の声を聞ける距離”にいたということも大きい。「こうしたい」という要望が作家側にあっても、県外の大手メーカー相手にわざわざプレゼンしにいく気にはまずならないだろう。日頃からの付き合いがあり、気軽に相談できる信頼関係と距離感。そうした関係性の中でこそ、“小さな挑戦”が重ねられる。

作家の制作を守る“ライフライン”としての使命
県内のみならず、北陸で電気炉を扱う作家にとって、制作上の“生命線”ともいえる共栄セラミックの存在。しかし、現時点で後継者は決まっていないという。
「事業承継については、今まさに考えているところなんです」。大きな転機となったのは2020年。仕事中に沢田さんが突然倒れた。脳卒中だった。「ちょうどコロナの真っ最中だったんですけどね。救急車で運ばれて、本当にもう死ぬのかなと思いました。後遺症で、今も左手の感覚が全くないんですよ。風呂に浸かっても“熱い冷たい”もわからないのですが、不思議やなぁ、おもしろいなぁと今となっては思います」と笑う。
それまでは電気炉の設計から製造・修理まで、沢田さんが自ら行っていたが、現在はアドバイスする立場に回っている。社員も増やした。電気炉の製造が好調で、メンテナンスの依頼も絶えないため、当時2名だった社員も現在は5名に。
「どちらにせよ僕も還暦近いので、そろそろ先のことを考えないといけないなと。作家さんたちのためにも、この事業はなんとか続けていけるように」

工芸を取り巻く時代の変化
素材の高騰や希少化、制作に欠かせない道具をつくる職人の減少…工芸を取り巻く環境自体も今大きく変化している。ものづくりの現場に出向くことが多い沢田さんも、その変化を肌で感じるという。
「ガラスでいえば、色ガラスが入手しづらくなってきたり“今までできていた表現”ができなくなる可能性も出てきていますよね。また、窯の修理で金箔の澄(ずみ※)屋さんともお付き合いがあるのですが、金箔を打つ時に欠かせない“紙”をつくっていた紙屋さんが高齢を理由に次々辞めていかれているそうです。この紙はとても特殊なものですが、その調合表などの知識も同時に失われている。『もう金箔を打てんくなるかもしれん』と、かなり危機感を持って話されていました」
(※)澄…合金を1,000分の1ミリの厚さにまで均一に延ばしたもの。金箔を打つ“もと”になる。

工芸の“地域性”を成立させている生態系
地元業者がいなくなり、地域で賄えなくなったエレメントは、県外そして国外へと、際限なく入手先が遠距離化していく。
「今は致し方なく“外に頼る”という流れになっていますけど、最終的には“全て自分たちで賄える”ようにしておかなければいけないと思います。例えば九谷焼の釉薬の多くは現在も県内で作られていますが、小松で採れる陶石との相性や、窯元さんで使っている窯の温度など、それぞれに細かく合わせて釉薬が調合されている。だからこそ、足繁く現場を回っている地元業者がいないとダメなんですよ。でなければ、“地域性”というものはどんどん薄れていくと思います」
工芸における地域性とは、何も技法や様式の中に込められたものだけではない。素材や道具を提供する人々、販売経路やメンテナンスを含めた、大きな生態系の中ではじめて成立するものだということを改めて感じさせられる。

工芸を支えてきた環境の瓦解を食い止めるには「やはり、その重要性を分かっている人が、行政に携わる人の中にいるということも大事だと思いますね」と沢田さん。
「この先も市場原理だけにまかせていたら、工芸を下支えしてきた人たちはどんどん消えていくでしょう。川下の人たちにまで、お金が全然回っていかないのですから。技術が途絶えないための、仕組みづくりから考える必要があるのだろうなとは個人的には感じます。『企業』となると、どうしても利益優先になってしまうけれど、工芸って“そうじゃない部分”も多分に含んでいるものだと思うので」

変化の波の中で「楽しみながら」続けていく
ちょっと重々しい空気になったところに「まあ、大きな話は個人でどうにもできないこともあるので、僕自身は楽しく続けていけたらいいなと思っていますね」と沢田さんは笑ってみせる。自身も窯の設計や修理が、何よりも“楽しい”のだという。
「不具合の原因が分かった時は“理にかなっているなぁ”といつも感心するし、おもしろいですよ。わからないところが理解できるようになって、段々自分のスキルが上がっているのも感じる。きっと勉強でもなんでもそうですよね。何が何だかわからないところからやってみて、最初は苦しいのだけど、ある程度までいくと段々楽しくなってくるという」

「少子化で従来の“大量生産・大量消費”でのビジネスモデルは成立しなくなってきているし、原価も高騰し続けています。『これまでのやり方』がもう通用しなくなってきていますよね。でも同時に、ガラス作家さんたちを見ていると『これまでにないやり方』で日本を飛び出して、世界レベルで活躍される方も増えている。そういう意味では、世界が広がったなぁと感じますし、希望も感じますよね」
嘆こうとも時代は無常に変わり続けていく。ならばせめて自分自身も変化しながら、その波を少しでも楽しんでいきたいもの。共栄セラミックが体現する「やってみたら、できるんじゃない?」マインドが、踏み出す背中を押してくれる。
(取材:2026年2月)
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<profile>
沢田滋 Shigeru Sawada
1986年創業の「共栄セラミック株式会社」2代目。代表取締役。入社当時は経理を担当していたが、瓦釉薬事業の縮小により、独学で電気炉の修理を始め、電気炉の製造にも乗り出す。
共栄セラミック株式会社
住所:〒920-0226 石川県金沢市粟崎町5丁目17番地
電話:076-201-8931
HP:https://kyoeiceramic.co.jp/
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