インタビューvol.27 有永浩太さん(吹きガラス作家)

インタビュー

2025.07.25

支えられているし、支えている。
ものをつくって生きていくための関係性。

吹きガラス作家・有永浩太さん

発災から一年半が経過した、令和6年能登半島地震。しかし、復興の歩みはまだまだ道半ばで、長期的な視点での支援が必須です。今回は「KOOGEI Art Gallery 銀座の金沢」にて2025年8月6日〜18日に開催される能登半島地震復興支援「風・土・灯り」展に出展予定の作家のお一人、有永浩太さんへのインタビューです。

グラスや花器など、独自の技法で表現された有機的でのびやかな吹きガラスが人気の有永さん。数年待ちになる作品もあり「独立することが難しい」とされてきた「吹きガラス」の世界で「作家として生きていく」ことを見事に体現しているお一人です。今回は地震後の作家活動について、また、有永さんが長年取り組んできた「有永式」の窯開発、そして若手作家を支援する理由など、ものづくりにおける互助的関係性を中心にお話をうかがってきました。

能登半島と能登島をつなぐ「能登島大橋」。向こうに見えるのが能登島
能登島にある有永さんの工房「kota glass」

訪れたのは、のとじま水族館からもほど近い有永さんの工房「kota glass」。風がゆったりと木立を抜け、聞こえているのは葉のそよめきと鳥のさえずりだけ。大地震があったとは思えぬほど穏やかな風景ですが、工房までの道中には通行止めの看板など地震の爪痕が随所に残っており、被害の大きさを改めて感じさせられます。

合理的な理由で選んだ「能登島」

ーーとても気持ちの良い工房ですね。有永さんが工房を構える土地として能登島を選ばれたのも、やはりこの自然環境が決め手だったのでしょうか?

有永:いえ、自然が豊かなところで…といった思いは特になかったですね。工房では篭りっきりで作業するので、周囲の環境は正直あまり関係ないというか(笑)。
それよりも、この場所ってすごく「便利」なんですよ。40分くらいで「能登空港」に行けて、かつ飛行機に乗ってしまえば1時間で羽田空港に着ける。都内へのアクセスが非常に良いんです。
元々叔母が能登島に暮らしていた縁があったことと、あとはやはりこういう仕事は「音」も出るし「火」も使うので、周囲に何もない方がいい。そうなると、自ずとこういった場所になっていったという感じですかね。

工房の窓からの景色。一枚の絵画のよう。
伸びやかなグラスシリーズも人気

令和6年能登半島地震で工房も被災
ほぼキャンセルになった展示会

ーー工房を持つ場所として合理的に選ばれていたんですね。有永さんは2016年からご家族で能登島に移住されています。令和6年能登半島地震では珠洲や輪島など奥能登地域の被害が報道されることが多かったですが、能登島はどのような状況だったのでしょう。

有永:能登島も結構酷かったですね。今回の地震は全域というより局所的な被害が無数に点在しているような被害の現れ方だったので、島内でも在所(※)によって被害状況が全く違うんですが、今でも部分的に直ってないところがまだありますよ。

※在所…特定の場所や地域を指す言葉で、能登島では町内の特定の集落や地区を指す場合に使用される。

ーー工房にも被害があったのでしょうか?

有永:工房も屋根が崩れて窓は割れ、地割れも起きていました。窯を置く地面だけは頑丈にセメントで打ってあったので、窯自体は無事だったのですが、800kgもある窯が大きくずれ動くほどの揺れでした。工房に保管していた作品はほぼ全て割れてしまったので、2024年に予定していた展示会の多くはキャンセルになりましたね。

作家は「つくらないことには」何も始まらない

ーーでは、やはり地震後しばらくは制作ができない状況が続いていたのでしょうか?

有永:制作自体は2024年2月からスタートしています。僕らみたいな仕事は、作らないことには収入もありませんし、何も始まらないですから。とはいえ制作のペースがなかなか掴めず、いまだにこの時のズレに苦しんでいる感じですね。

ーー発災から約1ヶ月での制作再開というのは、なかなかにスピーディーな動きですね。工房も被害を受けた中、どうしてそんなに早く再開できたのでしょうか。

有永:修繕の事などで悩んでいた時、東京のギャラリーのオーナーが「作りなさい。売ってあげるから」と言って下さったのが始める後押しになりました。
そして今まで関わりのあった方や大学の先輩たちが寄付を募ってくれたんです。そのお金があったから「行政の動き」を待たずに始めることができました。行政は申請がいつ通るのか、お金がいつ下りるのかといった目処も全く見えない状態でしたし、自己資金だけで対応することは難しかったので。
寄付金は工房の修繕に使わせていただき、余ったお金は能登支援として寄付させていただきました。

透明度が高いことでも知られる能登島の海

ガラスは割れても、溶かせばまたつくれる

ーーそして地震後初となる展示会は、珠洲から避難して仮店舗で営業されてていた珠洲市のギャラリー「舟あそび」さんで、展示されています。こちらはどのような想いで開催されたのでしょうか。

有永:「地震があったけれど、また始めます」といった意味合いを込めた展示にしたいと考えていました。工房で保管してあった作品は地震でほぼ全て割れてしまったけれど、ガラスは割れても溶かせばまた使える。そこで、割れたガラスを集めて制作した作品が「0101 blue」のシリーズです。

「0101 blue」。どこか能登島の透明感ある海を思わせブルーは、割れた様々なガラスを溶かして生まれた無作為な色だそう(写真提供:gallery 舟あそび)
再利用率がとても高いガラス。工房でもほとんど廃棄物が出ないそう

萎縮する吹きガラス業界
「このままでは、自分も制作を続けられない」

ーー次に有永さんが長年開発に取り組んでおられる窯についてお話をうかがっていけたらと思います。通称「有永式」は、有永さんが金沢の窯メーカー「共栄セラミック株式会社」さんと一緒に設計段階から相談しながら制作された吹きガラス用の溶解炉で、設備が従来よりコンパクトなこと、そして何より「窯の火をいつでも止められるようにした」点が画期的といわれています。そして惜しげもなく自身の工房システムを公開されている理由をうかがえますか?

金沢市の共栄セラミック株式会社と開発した「有永式」。コンパクトで短期間火を止めても同じ坩堝(るつぼ)で作り続けることができる。長期間外出時には火を止めることができるのでランニングコストも減らせる。

有永:僕が自分の工房のシステムを公開しようと思ったのは、吹きガラスの業界が段々と萎縮していることに危機感を感じていたからです。それに伴って、これまで吹きガラスの“インフラ”を提供してくれていた会社も少なくなってきています。そこで「吹きガラスをやる人の全体数」を増やさなければと。

支えられているし、支えている。関係性を意識する。

有永:例えば、「有永式」の窯ができる以前、窯メーカーでは「数年に一回、新しい窯の注文があるかどうか」といった状況だったそうです。そして吹きガラスにとって必要不可欠な「坩堝(るつぼ)」を作る会社も国内にもう数件になり、そのうちの1社は事業を縮小しているという状況です。このままでは「自分が吹きガラスを続けていく」ということ自体がすごく難しくなっていく。
僕ら作り手側も、そういう人たちにこれまで支えられてきたこと、そして自分たちが彼らを支えているんだという関係性をもっと意識すべきですよね。

溶解炉内の高温に耐えガラスを溶かす坩堝。「僕が一年で使う坩堝は2個くらいなので、作家が増えないことには製造量も増えようがないんです」

吹きガラス特有の「自分で工房を持つハードル」

ーーそれは「斜陽」というレベルではなく、もはやギリギリの「瀬戸際」まできているような状態だったんですね。どうして吹きガラスは独立する作家が少ないのでしょうか?

有永:ガラスにも色々と技法があり、それによって必要な設備も全く変わってくるのですが、特に吹きガラスはハードルが高いとされてきました。

要因の一つが窯の問題。従来の吹きガラスの窯は、基本的に一度火を入れたら365日24時間、窯の火を焚き続けないといけませんでした。なぜなら火を止めるとガラスを溶かすための坩堝を交換しなければならないし、再び温度を上げる際に時間とコストが余計にかかる。長時間不在にすることもできないので旅行などは論外で、加えて大型の窯は値段も高くて個人が所有できるようなものではなかったんです。

吹きガラスは本来「作家が活動しやすい仕事」であるはず

ーー軽やかな吹きガラスのイメージからは、想像できないほど重い様々な理由があったのですね。

有永:ネガティブな方向で捉えるとそうかもしれないんですけれど、元々吹きガラスって「量産」のために生まれた技術で、すごく早く作れるんですよ。他のガラスと比べても「つくれる量」が多いので、本来は作家にとっても「活動しやすい仕事」であるはずなんです。
でも、この「設備の大変さ」が前面に出過ぎてしまって、本来の「吹きガラスの魅力」というものが広がっていないように感じるんですね。自分でガラスを溶かして、吹きながらかたちづくるー…というのは、すごくおもしろいものなんですよ。

有永さんの作品の「gaze」シリーズ。(画像提供:有永さん)

「できない」というより、「誰もやろうとしなかった」

有永:なので、その“ボトルネック”になっている部分、吹きガラスをやる上で「大変だ」と思われているところを一つずつ潰していこうと。そういった背景の部分から設計まで、窯屋さんと一緒に考えてつくりました。

ーー火を止められるように。意外とシンプルな解決策だと思うのですが、今までなぜそういった窯がなかったのでしょうか?技術的に難しかったのでしょうか。

有永:ガラス業界以外の人にこの話をすると、みんなそう言うんですけどね(笑)。もちろん技術的にクリアしなければならない問題はありますが、「できない」というよりも「誰もやろうとしなかった」というか。これまでの吹きガラスの業界では「大きな設備を持たなくてはならない」という固定概念が強かったように感じます。

一度火を止めると中の坩堝が冷えて割れてしまうので全部取り替えないといけない、というのが従来は“常識”だった。

有永:学校で使っている窯も大きな設備ですし、先輩たちに話をうかがっても「吹きガラスで工房を持つのは大変だ」と口を揃えておっしゃっていました。それだけで食べていくのが難しいので他に仕事を持ったり、どこかの工房に所属している作家さんが多かった。そして自分に工房を持てないので、作品を作るときはレンタル工房や一日貸しの工房で制作することになる。
これはもはや発想を変えて、何か「新しいシステム自体」を作らないといけないなと感じていました。

若い作家達が「新しいスタンダード」になってくれたら

ーー今有永式はどれくらい普及しているのでしょうか?

有永:8年間で20基くらいでしょうか。共栄セラミックさんは、多分今日本で一番溶解炉を作っている会社でしょうね。

ーー画期的なイノベーションだったと思うのですが、ちなみに「特許」の取得などはお考えにはならなかったのですか?

有永:いや、そんなのは僕の仕事じゃないでしょう。「有永式」というのも、窯屋さんの社内での呼称ですし(笑)。そんなことより、吹きガラス作家さんの全体数を増やすことが重要です。どんどん広がっていかないことには、僕もこの先吹きガラスを続けていけないですからね。

この窯ができて吹きガラスの工房を持つ初期費用はだいぶ抑えられるようになり、今徐々に30代くらいの人が自分で吹きガラスの工房を構えるようになってきているんです。この傾向が続いて、彼らのやり方が“スタンダード”になっていけば、吹きガラス作家はもっと増えていくと思いますね。

若手作家からの工房見学も快く受け入れている有永さん。「最近は少なくなったかな。有永式の窯を使っている工房が全国に増えて、より近場で見てもらえるようになったので」

独立したら、後進を育てる
ものづくりの世界の“ルール”

ーー有永さんの活動の根底には「他者にも利することを」というフィロソフィーがあるように感じます。大学の恩師にも「独立するなら、後進を育てないといけない」という教えがあったとうかがいましたが、「独立する=フリーランス」というある意味で“個人主義”ともいえる生き方を選ぶ中で、どうして「後進の育成」が求められるのでしょうか?

有永:それが「ものづくりの世界のルール」ですよね。自分が独り立ちできたなら、次は後進に貢献する。僕らがやってきてもらった恩を下に返していく。そうやってものづくりは続いてきているし、先人たちからの恩恵を受けながら、新しいものがつくられてきたわけですから。

「作家」とは、「製造業」であり「自営業」

ーーものづくりの世界のルール。では、これから若手の作家が活躍しやすくなるにはどんな環境が必要だと思いますか?

有永:どうなんでしょうか。ちなみに僕自身は「作家がどうやって生活しているのか」が想像できなかった、というのはありますよね。「つくる」ことはできても「それでどう生活するか」がイメージできない。だから独立への一歩を踏み出せない、という人も多いのではないでしょうか。

有永:独立前の僕も聞きたいけれど聞ける人が周りにいなかったので、「飲食」や「アパレル」の業界で独立した同年代に話を聞いていました。こういう業界って30代で独立される方が多いので。
どれくらい経費をかけて、どのくらいの売り上げを毎月作れば生活していけるか。それって作家活動とほとんど一緒なんですよね。「作家」というと特別なイメージがあるのかもしれないですけれど、僕に言わせれば「製造業」です。材料を仕入れて、加工して、経費を引いて生計を立てているわけですから。

「自分がつくったもの」だけで生活していくには?

有永:他のことをせず「自分の作ったものだけ」で生活していくにはどうしたらいいか、大学を卒業後いくつかの工房で勤めて、卯辰山工芸工房を辞めるまでの15年間、ずっと考えてきましたし、そのための準備をしてきました。
資金を借りるために、商工会の方々に教えてもらいながら事業計画書をつくったこともすごく勉強になりましたね。自分の仕事がどれだけちゃんと回って、お金を出す側にもメリットがあるのか、示せないといけませんからね。

ーー「作家」というと、その「創造性」や「芸術性」ばかりに目が行きがちですが、「お金をいかに回していけるか」ということも、ものすごく重要なのですね。

有永:「やりたいことを辞めないといけない理由」って、大概が「お金」ですからね。
最近こういう講演をする機会が増えているんですよ。もちろん「コンセプト」や「作品性」の話もしますが、「どう生きていくか」という話は、割と皆さんが知りたいことなのかもしれません。

地震を経た今の「やりたいこと」

ーー8月には「風・土・灯り」展もあります。それでは最後に、地震を経た今有永さんが作りたいものはどんなものですか?

有永:「つくりたいもの」は以前からありすぎて、いつも「どれから作っていこうか」という状況なので、地震を経て何か新たにー‥というものは特にないですね。
ただ、地震を経て「やりたいこと」は一つあるんです。それは「もうひとつ、工房を持つ」ということ。

バックアップとして、独立の背中を押す場として

ーーもう一つ、工房を。

有永:元々、涼しいところに夏の工房を作れないかという想いは持っていたんですが、地震を経験して「バックアップ工房」というアイディアとして考えるようになりました。今日本全国どこで災害が起こってもおかしくない状況です。そんな中で、被災したガラス関係者が誰でも使える、バックアップとしての工房にできないかと。

普段は月単位のレンタルにして、施設の管理も全部自分でやってもらうんです。もちろんお金の管理も。そしたら若手作家にとっても「自分の工房を持つ体験」ができて、独立へのイメージが持ちやすいんじゃないかと思うんですよね。そしたら「借りているよりは、自分で工房を持った方がいいかも」と独立への方向にシフトしていけるんじゃないかなって。

ーーそれが有永さんの「今やりたいこと」なんですね。災害時のバックアップ工房であり、かつ若手作家の独立への背中を「ドン!」と一押しするような。

有永:まぁ「もう一つ小さな工房を持ちたい」というのは、自分のためでもありますから。もうだいぶイメージは固まっているんですが、はたしていつになるかなぁ。

(取材:2025年6月)

_________

<profile>

有永浩太 Kota Arinaga
1978年、大阪府生まれ。倉敷芸術科学大学卒業後、福島県と東京都のガラス工房に在籍。2011年から金沢卯辰山工芸工房ガラス工房専門員(2016年まで)。2017年能登島に自身の工房「 kota glass」を 設立。現在も能登島を拠点に制作。

HP:https://www.kotaglass.com/
Instagrum:https://www.instagram.com/kota_arinaga/

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