インタビューvol.25 高下裕子さん(株式会社 金森合金 24代目)
インタビュー
2025.06.24
「違い」を生かして、「違い」を繋いで、“金属の生態系”をつくる。
工芸やものづくりのビジネス創出を支援している、金沢クラフトビジネス創造機構。作家だけでなく、金沢の町工場やメーカーなど、様々な「ものづくりの現場」から、新たな工芸の試みもお伝えしていきます。
今回は創業から300年以上の歴史を持つ「株式会社 金森合金」を訪ねました。同社は非鉄金属の精錬から鋳造まで“一気通貫”で行っており、分業化が進む製造業の中で特異なポジションを築いています。ロケット部品への素材提供から、江戸時代の商いに回帰するような自社ブランドまで、その事業展開は多岐に渡り、現在開催中の「2025年大阪・関西万博」でもサプライヤーとして参画中です。
こうした新たな取り組みを矢継ぎ早に展開しているのは、24代目であり現在「事業承継中」という高下裕子さん。元々は広告代理店の営業として活躍していた高下さんが家業を継ぐまでの経緯や、異分野にいたからこそ見える強み、異分野をつないで金属資源を循環するプロジェクトなど、様々なお話をうかがってきました。


先祖は“鋳物師七人衆”の一人、金森弥右衛門
─裕子さんが24代目当主とのことですが、「24代」って中々耳にしない代数なので驚きました。まずは会社の歴史からうかがえますでしょうか?
高下:はい。創始者である金森弥右衛門は、江戸時代に加賀藩主・前田利長が高岡に招いた“鋳物師(いもじ)七人衆”のうちの一人でした。元々は大阪で10代続いていた鋳物職人で、高岡では「釜八」の屋号で創業します。
藩政期の鋳物業はすごく守られた業種でして、「鋳物師職許状」という許可証を持っている者しか営むことができなかったんです。加賀藩の調度品や武具そして仏具に庶民が使う鍋釜など、実に様々なものを高岡では作っており、北前船も営んでいました。



高下:けれど藩が解体されてからは、鋳物業も自由競争の時代を迎えます。高岡に居続ける理由もなくなったので、新たなマーケットを求めて1911年(明治14年)に金沢へと会社の拠点を移しました。当初は金沢市長田の工業地帯に工場を構え、紡績機などの機械部品を製造していました。当時の金沢は繊維業が盛んだったので、そのための機械部品のニーズが高かったんです。

「つくっているもの」は変わっても、「やっていること」は変わらない
─調度品や武具から機械部品へと、時代と共に製品も変わっていったんですね。
高下:はい。でも「つくっているもの」は時代と共に変わりましたが、「精錬」と「砂型鋳造」という、「やっていること」自体は変わっていないんです。
「精錬」とは簡単に言えば「欲しい金属素材になるよう不純物を取り除いて、必要なものを足す」といった技術です。鉄や銅など「地域でいらなくなった金属を回収し、また新たな製品に作りかえる」ということをうちではずっとしてきました。今も新聞印刷工場から出るアルミ版を弊社で精錬し、素材として循環させています。



高下:そして「鋳造」も、昔ながらの「砂型鋳造」を現在も続けています。砂型鋳造は「砂で上下の型を取り、それを合わせて内部にできた空洞に溶けた金属を流し込んで製品を作る」という鋳造技術で、その工程は何百年もの間基本的には変わっていません。ただ、今は主型の製作に3Dプリンタを使うことがあったり、流しこむ「素材」も弊社は「非鉄(※)」と呼ばれる素材分野へシフトしたりと、そういった時代の変化はあります。
(※)非鉄…鉄および鉄を主成分とした鋼(鉄合金)以外のすべての金属を指す。アルミニウム、銅、亜鉛、鉛、スズなど。


分業化が進んだ「大量生産」の時代に、一気通貫の「多品種少量生産」を守り続けて
─金森合金さんでは、現在ロケット部品への素材提供もされているとうかがいました。宇宙用部品って、物凄く厳格に審査されるイメージがあります。
高下:そうなんです。私が家業に入る以前の2006年から、もう20年近くになりますね。「オーダーメイドの特殊な素材を決まった形状で納品する」という案件でした。
宇宙用部品は発注先のルートが厳格に決まっているものなんですけど、そのルートの中で「どこも作れなかった」らしく話が回ってきたんです。ところが、うちでは多品種少量生産で培ったノウハウから作ることができた。その上、良品を製造するための手法提案まで父がしたそうで(笑)。

─それはすごい!なぜ他では作れなくて、金森合金さんでは作ることができたのでしょうか。
高下:「精錬」から「鋳造」、いわば「素材づくり」から「製品製造」まで、“一気通貫”で自社で続けてきたことが大きいと思います。
元々鋳物業ではそれが当たり前だったのですが、高度経済成長期の“大量生産・大量消費”の時代に効率を求めて分業化が進み、「精錬」と「製造」は業界として切り離されていったんです。精錬会社には「素材をつくるノウハウ」はあるけれど「ものづくりのノウハウ」はない。かたや鋳物会社は「ものづくりのノウハウ」はあるけれど「素材をつくるノウハウ」はない‥つまり知識の分断が起きているんですね。
うちは大量生産の方には行かず「多品種少量生産」をずっと続けてきたからこそ、つくることができたと思っています。

「女人禁制」「3K」ともいわれた家業を継ぐまで
─ここまでは会社の歴史をうかがってきましたが、次に高下さんが会社に入られるまでの経緯を教えていただけますか?
高下:はい。今こうして家業に入っていますが、「会社を継いでほしい」とか「手伝ってほしい」と家族からいわれたことは、一度もないんです。
祖父の代では鋳物業は“女人禁制”の世界でしたし、父の時代は「きつい/汚い/危険」の“3K”の代表業種といわれていました。うちは私と妹の二人姉妹ということもあって、継がせるつもりは最初からなかったのか、家ではそんな話は誰もしませんでした。

高下:大学卒業後、東京の広告代理店で営業として働いていましたが、「実家の会社はどうなるんだろう」ということは、頭の片隅にずっとあったような気がします。
結婚を期に、夫としばらくオーストラリアで暮らしていましたが、ビザの関係で急遽帰国することに。東京の会社を辞めてオーストラリアに行っていたので「じゃあ、金沢に帰ろう」と。

─家業を継ぐ確固たる覚悟をお持ちだったのかと思いきや、意外と「なりゆき」の部分もあったんですね。
高下:そうなんです。家業とはいえ、「製造業」について全く無知な状態だったので、さすがにこれではまずいかなと。手始めに「ポリテクセンター石川」という、製造業の知識や技術が学べる施設に半年間通いました。そこで旋盤を回したり、機械製図の勉強をしたり、CADで図面書いたりもしてましたね。
半年の職業訓練を経て「金森合金」に入ったわけなのですが、まず驚いたのが「管理のアナログさ」。注文は紙ベースで管理されていて、さらには「どういう素材で/どういう工程で/どうやって作る」といった情報が全然残されていない。年間1,000種類以上の種別を作っているのに「みんな、本当にどうやって作ってるの?」と(笑)。
「会社の全体像」をシステム化したことが、結果的な“事業承継”に
─それは「職人さんあるある」なのかもしれませんね。ノウハウは職人さん自身の中にあって、明文化やデータとしては残されていないという。
高下:そこで、業務アプリのクラウドサービスを使って、会社や仕事の全体図を作っていくことにしたんです。スケジュールや在庫管理、素材やマニュアルなどのマスターデータ(※)を次々作っていきました。
(※)マスターデータ…業務を遂行するために企業内に設置されたデータベースなどの基礎情報のこと。

─さすがは元営業さん…!このあたりの作業も手慣れたものだったのでしょうか。
高下:いえ、初めてでしたが自分で勉強しながら。それが会社に入って一番最初の「私の仕事」でもあり、結果的に「事業承継」にもつながっていったんです。
全体図を作る中で頭の中も整理されていって、会社の強みや特徴が段々と見えてきて。その中で「“自分が作りたいもの”を作っても、少量多品種のうちのやり方ならリスクが少ない」ということにも気づき「KAMAHACHI」というブランドを立ち上げることにもつながっていきます。

「お客様との接点」を復活させた「KAMAHACHI」
─「KAMAHACHI」、それは先ほどお話されていた江戸時代の屋号ですね。
高下:そうです。「釜八」という屋号は、金沢に来て機械部品へと転換する中、つまりBtoBのビジネスがメインになっていく中で、実は一度消えているんです。それと同時に、一般のお客様との“接点”も失ってしまっていた。
うちは江戸時代には「貸釜(かしかま)」という商売もやっていて、鍋を作って貸して、古くなったらメンテナンスをしてまた貸す、というまさにBtoCの事業もしていました。そこで、江戸時代に戻るようなやり方で製品をつくり、お客様との関係性も取り戻そうということで、2019年に「KAMAHACHI」として屋号を復刻させました。

─お客様との接点の回復、そんな想いもブランド名に込められていたんですね。
高下:とはいえ「ブランドをつくる」って、最初は戸惑うことばかりで。代理店時代は、お客様がすでにお持ちの「ブランド」に対してプロモーションを提案する仕事をしていましたが、「自分で一からつくる」となるとわからないことだらけ。商品を作るにしても「JANコード(※)は取得してますか?」と聞かれて「それはなんですか?」という状態でした(笑)。
(※)JANコード…事業者や商品情報をしめす、世界共通の商品識別コード。
それに「商品」ができても、次は梱包形態や説明書など「商品に付随する様々なこと」も考えないといけない。この頃に金沢クラフトビジネス創造機構の「クラフト経営支援ゼミナール」にも参加しました。そういうことから一つ一つやっていってできたのが「針のない剣山」でした。

大阪・関西万博への挑戦と、能登半島地震
─新たな試みとして、現在開催中の大阪・関西万博にもサプライヤーとして出品されています。
高下:はい。今回の万博は「共創」や「地方創生」がテーマに組み込まれていることもあり、中小企業やベンチャー企業にもチャレンジする場が開かれていたんですね。
私たちは「未来社会ショーケース事業 Co-Design Challenge 2024」というプログラムのサプライヤーとして2023年採択者と合わせて全22社の中に選んでいただきました。けれど、申し込みから昨年5月の発表までの間に、令和6年能登半島地震が起きました。うちもクレーンや造形機が壊れたりと被害を受けましたが、「手込め(※)」というアナログな工程でなら問題なく製造できたんです。
また、出品するものも当初の予定を変更し、能登半島地震の「災害廃材」を使って何か作れないかなと考えるようになりました。
(※)手込め…手込め鋳造。職人が手作業で砂型を作り、そこに溶けた金属を流し込む、古くからある鋳造法。


高下:「災害廃材」といっても、当初はどんな金属素材が出てくるか全くわかりませんでしたが、住宅のサッシなどに使われる「アルミニウム」が多いことが、今年5月頃になってようやく分かってきました。
普段鋳造する時は、上型下型を重ね合わせ、しっかり型取られた中に金属を流し込むので、規定通りの製品ができるのですが、今回は片方の型しか使わず、その中に「流し込む」というやり方をしました。素材によって動き方も違うので規定通りのサイズにはならないし、穴だって空く。けれど、その有機的な形や表情そのままを「能登の災害の記憶」として残せないかと考えたんです。

「循環」のネックは、「異業種間をつなぐ」こと
─資源の循環に精通した金森合金さんですが、「災害廃材の精錬」は初めての試みだったと思います。
高下:これがなかなかに難航しまして。というのも「災害廃材のフロー」というものが、当初全くわからなかったんですね。担当者も「この部署の、あの人しか知らない」といった状態で、そこから数珠繋ぎに辿って、あちこち行ったり来たりを繰り返しながら、ルートの全貌が見えてくるまでに3ヶ月間を要しました。
もちろん、現場に入っている関係者の中では整理されていることだと思いますが、「外部」からは全く見えない。特に災害廃材は「早期分類」が重要だといわれています。分類が進まないまま溜まっていけば、大量の「ゴミ」として廃棄せざるをえない。これは今回やってみて初めて見えた課題でした。

「製造業のサイクル」に戻して、“金属資源の生態系”をつくり出す
─金属は、素材の中でも「循環しやすい素材」といわれていますが、この異業種間の隔たりが循環の妨げとなっていたのですね。
高下:そうなんです。なので、今私たちは使用済み金属を「資源として製造業のサイクルに戻す」ということに取り組んでいます。万博を機に発足したタカラベルモントさんと読売新聞さんとの「サステナビリティ×工芸」プロジェクトもまさにそれです。
「美容室のカラー剤・パーマ剤の使用済みアルミチューブ」は毎日大量に出ますが、製造業の厳密なJIS規格(※)には適応しない素材なので、これまでは廃棄されることが多かったんです。
けれど、うちのような企業が入って精錬し、製造業のJIS規格に調整できれば、また「製造業のライン」に戻すことができる。今日本は円安の中、海外から金属を高額で輸入し、使用済みの金属は安く海外に輸出する、ということを続けている状況です。この不均衡を解決する一助にもなると思うんです。
(※)JIS規格…日本の産業製品に関する規格や測定法などを定めた日本の国家規格


─なるほど、分断された異業種間を繋ぐ役割が重要だったのですね。
高下:そうです。これまで橋渡しがなされず「産業廃棄物」とされて埋め立てられてきたものを「資源」と見直して、新たなものに変えていく。“金属の生態系”と私は呼んでいるんですけれど、異業種間をつないで、金属の循環型サイクルを築いていきたいと私たちは考えています。
これは新しいアイデアでもなんでもなくて、「ゴミを、資源として見る」ということは300年以上前から続けてきていて、うちでは「当たり前のこと」なんですよね。これをさらに進めて行って、エネルギーも素材も100%自社内で循環できる「循環ファクトリー」みたいにできないかなって、今まさに考えているところなんです。

家業への「先入観」は、極力持たない方がいい
─家業では当たり前だったことが、外から入ってきた高下さんの目には新鮮に映ったということですね。家業としてものづくりをされていて、気にはなっているけれど自身はサラリーマンで…という方も多いと思います。そういった方々に何かアドバイスはありますか?
高下:家業への「先入観」は極力持たない方が良い、ということでしょうか。親と同じことをする必要はないですし、凝り固まってしまうのって良くないなと。
異業種から来た私の目には、うちが当たり前のこととしてやってきた「資源の循環」が新鮮に映った。この「視点」を持つことって、すごく大事だと思うんです。もし仮に、私がすぐに家業に入っていたら、何も疑問を持たず、そのまま事業を引き継いでいたと思うんですよね。

背負い込みすぎず、“気軽”に家業をのぞいてみて
─ちなみに、東京で築いてきたキャリアをリセットして家業へ入ることの葛藤はありませんでしたか?
高下:というか、今の私の仕事も、前職に通ずるところがあると思っているんです。
営業職時代は、お客様の課題や納期、そして予算にあわせて“社内・外のプロフェッショナル達”に仕事を依頼し、その“最終調整”をする、という仕事でした。そうして、いろんなプロジェクトを同時進行させていく。今私が会社で職人さん達とやってることって、ある意味同じなんですよね。


高下:とにかく、まずはそんなに背負い込みすぎずに一度気軽に家業をのぞいてみたらどうでしょうか。かくいう私も、まだ「事業承継中」の身ですし。最初から「継ぎます!」って、何だか荷が重いじゃないですか(笑)。その人なりのやり方で、その人だからこそできることが、絶対にあると私は思いますね。

(取材:2025年5月)
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<profile>
高下裕子 Hiroko Koge
株式会社 金森合金 24代目。1986年金沢市出身。大学卒業後、東京の大手広告代理店にて勤務。結婚を経てオーストラリア移住後、金沢にUターン。現在家業である株式会社 金森合金の事業承継中。
株式会社 金森合金
HP:https://www.kanamori1714.jp/
Instagram:https://www.instagram.com/kanamori1714
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