インタビューvol.20 赤地陶房|赤地健さん・径さん
インタビュー
2024.09.24
自由に、伸びやかに。暮らしを彩る、赤地陶房の器。
赤地健(あかじ けん)さんと赤地径(あかじ けい)さんの親子で営む「赤地陶房」。金沢市桂町にある工房では、成形から絵付けまでの工程をお二人で担っています。
赤地陶房はお碗や皿、重箱など、食卓を彩る食器類を中心に制作し、九谷五彩の中でも「赤」を大胆に使った、のびやかな絵付けが特徴的です。現在、金沢市では「金沢の工芸」の魅力を知ってもらう取り組みとして、日本料理「大志満」新橋汐留店にてお二人の作品を展示しています。(2024年11月下旬まで)
今回は健さんと径さんのお二人に、赤地陶房独特の作風について、そして「日常の器」を作り続けるということについてなど、お話をうかがってきました。
ーー今回、金沢市の企画で、実際の飲食店に展示されました。「つかう器」をつくり続けておられる赤地陶房さんとして、今回のような「つかう場」で展示されるというのはいかがでしょうか?
健:そうですね、僕がつくるものは「使ってほしいな」「使ったら面白いと思うなぁ」という想いで制作しているので、ありがたいなと。
径:僕らもお店にうかがって、食事をいただいてきました。料理店という場所で飾っていただけるのは嬉しいですし、今回は展示でしたが、実際に使っていただけるとまた嬉しいですね。
“自由度”を求めて、九谷焼の道へ
ーーそれでは、赤地陶房さんのお二人にそれぞれお話をうかがっていきたいと思います。まずはお父様の健さんから、九谷焼の道へ入られた動機をお聞かせ願えますでしょうか?
健:僕は最初から「九谷焼がしたい」と思っていたわけでは、特にないんですね。
自分の親が漆器の木地屋だったこともあって「手を動かしてものをつくる」ということは昔から好きだったんです。親父の仕事場に勝手に入っては、よくイタズラして遊んでいました。だから勉強はできなかったんですけど(笑)、図工だけは得意で。
「ものをつくる仕事なら、なんでも面白いだろう」と、卒業後は最初鉄工所に勤めたんです。ところが、これが僕には全然ダメだった。鉄工所では“正確さ”が求められるわけで、“自分で何かする余地”というか “自由度” が全然ないということに、遅ればせながら気づいたんですね。
それで、「“絵”だったら、もう少し自由にできるんじゃないか」と思って、親父の友人のお弟子さんで、九谷焼絵付師の綿草甫(わたそうほ)先生のところに入らせてもらって絵付けを学びました。絵付けを一通り学んだあとは、どうしても「ろくろ」がやってみたくて、梅萼窯(ばいがくがま)にいきました。
ーーそれは絵付けだけでなく、「成形から自ら手がけたい」という想いからだったのでしょうか?
健:「成形から自分でやりたい」とか、それが「良い/悪い」とかではなくて、ただただ、ろくろを触ってみたかった。それだけです。
梅萼窯に入った後は、とにかく「ろくろ」を覚えようと。昼休みにもろくろを使わせてもらっていたのですけれど、それでは全然足りなくて、自分で手製の「蹴りろくろ」をつくって。家でも練習してました。とにかく僕には、ろくろが面白かった。これだけは今でもずっと変わらないことなんですよ。
どれだけ作っても、嫌にならない
ーーろくろに熱中されているということもあって、碗ものや丸ものといった食器類を制作されるようになったのでしょうか?
健:いえ、「使うもの」「用のあるもの」についてしっかり考え出して制作するようになったのは40歳になってからですね。その前に「日展」に向けて作品を制作していた期間が10年くらいあるんですよ。自分でも忘れていたんですけど(笑)。
ーー日展に出されていた時は、現在とは作風も違ったのでしょうか?オブジェのような?
健:その頃は大きめのものをつくっていましたね。普段使うような器は、つくっていなかったです。審査されて「入選するか/落選するか」という世界でずっとやってきて、やっぱりその世界に自分も染まってしまっていたというか。でもある時、なんだかそれが嫌になってきてね。
それで日展に出すのをやめてから、生活工芸というかクラフトの方に転向しました。振り返ってみれば、なんであんなモヤモヤしながらものを作っていたんだろうと。時間がもったいなかったな、と今にしてみれば思いますね。
自分が気持ちよくつくれるものを
ーー「作品」よりも、使われる「器」をつくる方が赤地さんの性に合っていたということでしょうか?
健:どうなんでしょうねぇ。でも、やっぱり一番はろくろを挽くときの感覚なんですよ。これがたまらないというか、今でもたくさん数をつくらなくてはいけない時でも嫌にならないんですよ。手の中で膨らんで出てくる形、土が伸びるあの感覚が、なんともいえない。
だから、「何が一番つくりたいか」といわれても、僕にはこれしかないんです。そういう意味では、ろくろで器をつくるのが性に合っているといえるのか、「一番気持ちよく作れるもの」なのかなと思います。
ーー「絵ならもっと自由にできるかな」と、ある意味では「たまたま」入った九谷の世界だったと思うのですが、今改めて「九谷焼」への想いはありますか?
健:やっぱり絵付けには自分なりに心を砕いてきました。いわゆる「九谷焼」とはちょっと違うかもしれないけれど、自分みたいなのがいてもいいんじゃないかなぁと、勝手ながらやっています。
僕は古九谷も好きなんですよ。あの大胆な「強さ」に憧れる。だから九谷の「赤」で、古九谷のような強い表現ができないものかなぁと思ってますね。
ーーそれでは、次は息子さんである径さんに、九谷焼の道に入られた理由をお尋ねします。九谷焼技術研修所に入られたのは、「赤地陶房を継ごう」との想いで?
径:いえ、全然。当時は大学を中退してやることがなかったので、親父に「行ってこい」と言われて。九谷焼研修所では友達とワイワイしながら絵付けしたりして、なんだかよく分からないけど「楽しいな」って。
「飯碗をつくること」を生業にしたい
ーーお二人とも、九谷焼を始められた動機が「やってみたら楽しかったから」というシンプルなところが共通していて面白いですね。ちなみに後に多治見市陶磁器意匠研究所にも行かれていますが、これはどういった経緯で?
径:これも親父に言われてのことで(笑)。「他所の焼物も見てこい」と。でも多治見に行ったことで、自分の制作について、ちょっとは考えるようになったと思います。
径:九谷焼は「絵付けをするために物を作っている」という部分があると思いますが、多治見は「土そのものをどう焼くか」という世界で、考え方も全く違います。
先生方もオブジェをつくる方が多かったので、コンセプチュアルにものづくりをする指導をされていました。みんなそこに向かって制作しているけど、自分には難しいというか「手に負えない」と感じたんですね
かたや自分はずっと親父がつくる器も見ていたし、魯山人の器のような民藝にも興味を持っていた。だからいつしか「自分は飯碗をつくるようなことを生業にしていけたらいいなぁ」と、思うようになっていました。
ーー多治見市陶磁器意匠研究所を出られた後は父である健さんに師事されますが、お父様の健さんから「赤地陶房の教え」というか薫陶のようなものは、何かあったのでしょうか。
健:そんなの全くないですよ(笑)。息子に何か言葉で伝えたことは、これっぽっちもないです。
径:そうですね。やっぱり基本は「見て覚える」という感じで。自分がやっていることはほぼ全て親父の真似だといえると思いますし、同時に、真似をするほどに「全然真似しきれていない」ということにも気付かされますね。
ライブ感と、自在さ。赤地陶房の「赤」
ーー健さんと径さんで作風は違えど、五彩を使いながらも「赤」を印象的に用いられています。「赤」へのこだわりや思い入れは、何かあるのでしょうか?
健:やはり「赤」は、すごく日本的な色ですよね。古来からのつながりを感じるし、何か特別な力があるように感じます。だから極論をいえば「赤で一本線を引く」、それだけでもいいんじゃないかと僕は思うくらいです。
ーー九谷焼の「赤絵」というと、「赤絵細描」の繊細な世界観が連想されますが、赤地陶房さんの赤はダイナミックというか、独特な力強さのある赤絵だなと。
健:そうですね、緊張しながら緻密に描いていくような赤絵は、やってないですね。僕の場合は細かく描いたとしても「赤をばら撒いていく」イメージというか。でも線を一本だけで仕上げるにも、細描とはまた違った緊張感があるんですけどね。
その時その時に、できあがる仕事
径:「赤」って、九谷五彩の中でも“仕事が早い色”なんですよ。つまり筆でサッと描けるというか、“勢い”が出しやすい。赤以外の五彩は和絵の具なので「盛って塗る」という感じですよね。
「ライブ感」というか、「フリーハンドな自由さ」というのか。ろくろも絵付けもそうなんですけれど、父の器には「その時々にできあがる仕事」の面白さがあると思っています。九谷焼の中でも結構変わったことをしていると思うので、自分もそれを受け継いでいけたらいいなと。
九谷焼に宿る“明るさ”
ーーまた、ダイナミックさを感じる健さんの作品に対して、径さんの作品には、ある種の「明るさ」というか「可愛らしさ」があるように感じます。
径:明るいものを作ろうとか、自分では特に意識してないんですけれど、自然とそうなっていくというか。それはやはり「九谷五彩」という色合いがそうさせるのでしょうね。食卓を華やかにする力があって、お客様もそういう器を求められている方が多いように感じます。
健:息子の作品もぼちぼち売れててありがたいなぁと。これは日常の中にポンと置いても“生きる”器なんじゃないかなぁと、ぼんやり感じながら見てますね。
ーーそれでは最後に、今後どのような作品を作っていきたいですか?
径:僕は、そろそろ新しいことをやってほしいなぁと、自分に思っていますね(笑)。
健:私はもうすぐ86歳になりますが、やっぱりろくろが楽しい。これが自分のとって一つの“杖”みたいな感じになっているなぁと、この頃感じています。そこから出てくる、自分にできる範囲のものをつくる。それでいいんじゃないかなぁ。
(取材:2024年8月)
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赤地 健 Akaji ken
1938 石川県金沢市に生まれる
1954 綿 草甫(九谷焼絵付師)に師事 (わた そうほ)
1962 九谷焼商工業協同組合 梅萼窯(ばいがくがま)入社
1965 独立
赤地径 Akaji kei
1972 石川県金沢市生まれ
1994 石川県立九谷焼技術研修所基礎コース卒業
多治見市陶磁器意匠研究所にて研修
父・赤地健に師事
2003-22 金沢からお正月(松屋銀座)
2012-18 team九谷 色絵の世界展(柿傳ギャラリー)
2015 赤地 健・径 展(meetdish)
2017-24 赤地 径展 九谷の春(福光屋ミッドタウン店)
各地で個展、グループ展
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