インタビューvol.18 「YUKAKU 優角」諸石優子さん
インタビュー
2024.07.29
産地で連携し、全体として「漆」を広めたい。
工芸は全てが繋がっているから。
能登を代表する伝統工芸の一つ「輪島塗」。2024年元日に発生した能登半島地震で、輪島市は震度7を観測し、また大規模火災等により甚大な被害を受けました。職人の生活すらままならない状況で、「輪島塗」もまた危機的な状況に瀕しています。
今回は、夫婦ともに輪島漆芸研究所で学んだ漆職人で「YUKAKU 優角」というユニットで活動されている、諸石優子さんにお話をうかがいました。諸石夫妻は地震後「#漆の道具をお裾分けしてくださいツアー」と名して、全国各地を巡る旅にもでています。地震直後の状況から、ツアーを経た心境の変化など、発災から半年経った今の気持ちをうかがいました。
自宅は全焼。地震で何もかも失って
元日に地震が起きた当時、私は娘と茨城の実家に帰省していて、家族でお節料理を囲んでいたところでした。輪島に残っている夫の状況が心配で、すぐにでも電話をかけたかったのですが、非常時には携帯電話の充電は何より貴重だろうと、SNSでの連絡に留めました。とにかく無事であること、津波の危険性があるため高台の避難所に逃げたことがわかってひと安心しましたが、避難所はギュウギュウで、立って寝るような状態だったそうです。
「輪島で火災が発生した」というニュース速報で「大町通り」が映った時は「まさか」と思いました。そして燃え上がる街並みの中には私たちが住んでいた家もあって。全焼でした。輪島漆芸技術研修所で同級生だった友人も一人、この火災で亡くなりました。DNA鑑定で、ようやく本人であることが分かったそうです。
それでも私は地震当時は能登にいなかったので、現地で被災した人たちが体験した“恐怖”というものを、真には理解できていないと思います。私と夫の間ですら感覚にギャップがあるぐらいですから。
#漆の道具をお裾分けしてくださいツアー
火災で、自宅はもちろん、漆の道具も何もかも失いました。残ったのは、YUKAKUを立ち上げる際に借入した借金だけ。
私たちは「木地」から「加飾」まで、漆におけるほぼ全工程を自分たちで担っていたので、「制作に必要な道具」がとにかく多いんですね。それをまた一から集めなおすとなるとー…。「もう辞めるしかないかな」という考えが、頭をよぎったこともありました。
そんな時、「使っていない漆の道具を譲るよ」と夫の高岡短大時代の同級生からご連絡をいただいたんです。そこから次々と同級生たちが「知り合いで譲れる人がいる」と情報を集めてくれて。その気持ちが、本当にありがたかったですね。
先のことはまだ何も考えられない状況でしたが「久しぶりに友人に会いたいな」という気持ちもあり、全国各地を訪ねて、道具をいただきにあがるツアーに出たんです。
ツアーは半分、“逃避行”
ツアーは現実からの「逃避行」みたいなところが、半分あったように思います。地震後は輪島に近づくにつれ表情が暗くなっていく夫の姿を見ていましたし、「いったん輪島を離れた方がいいのではないか」と思うこともあったので。
それに改めて考えてみたら、漆の仕事を始めてからというもの、ほとんど「旅行」というものに出ていなかったんですね。漆は「上塗り(※1)」をしてから2日間くらいは「風呂(※2)」の湿度を管理したりと細々としたお世話をし続けないといけないんです。地震前はずっと仕事詰めでしたから、土日も輪島を離れるわけにはいかなかった。
なので今回のツアーで各地を訪れる中で、「観光する」という感覚を、初めて自分事として感じられたように思います。いろんなものを少しずつ買いたい気持ちだとか、選ぶ楽しみのようなもの。輪島塗って、観光客の方も多く求めてくださるものなのに、私はその視点がすっかり抜けていたんだなぁと痛感して。
(※1)上塗り…塗りの最終工程。艶やかな質感を表現するために、僅かな塵も入らないよう細心の注意を払いながら行われる。
(※2)風呂…漆を塗った器物を入れて乾かすための空間。漆が硬化するためには一定の湿度が必要なため、湿度調整が可能な空間。
周りから、気持ちを固めてもらって
今回のツアーで道具の提供を申し出てくださった方々の半分以上は、元々の知り合いではなく、知人が探してくれた人や、SNSやメディアを見てご連絡くださった方が占めています。「昔漆を学んでいた」という方や、「漆職人をしていたけれど年齢や体調の理由で辞めた」という方ー‥職人としての大先輩からもご連絡をいただいたりして。自分たちが憧れていたけれど手に入らなかった道具や、もう作っている職人さんがいないものなど、大変貴重な道具も中にはありました。
ツアーに出た当初は何か展望があるわけでもなく、「集まった道具で、細々とでも何かできたらいいな」くらいの気持ちだったんです。
でもこうして沢山の方から応援や支援をいただいて、「できたらいいな」というより、今は「やらなきゃ」という気持ちに変わってきています。自分たちだけだと考え込んでグズグズしてしまうところを、周りの方々に「気持ちを固めていただいている」というか。良い意味で、お尻に火がつきました。
北陸は、日本屈指の漆器産地
今回改めて感じたことが、北陸は全国有数の「漆器の産地」なのだということ。道具を譲ってくださった方には石川や富山の方がとても多かったです。
職人さんの数も、腕前もどこにも負けないのではないかなと。漆器の木地も山中や砺波、そして福井で作られているものが多いと思います。まさに日本の「漆器の土台」を北陸が支えているという部分があると思います。
それに漆の教育機関が北陸には多いですよね。そもそも夫が輪島漆芸研修所に入所した理由も「日本で一番高い漆の技術を身につけたい」と思ったからだそうです。ちなみに私はというと、当時通っていた専門学校の壁に輪島塗の蒔絵のポスターが貼ってあって、「なんて華やかな世界なんだろう」と一目で魅せられて。ただ、実際の作業はそんな華やかな世界からはほど遠い、地道なものでしたが(笑)。
「いいものをつくる」、それだけでは残せない?
輪島塗は本当に高い技術と地道な工程の集積で、例えば最初の木地の段階からして「絶対に歪まないように」と、何年も寝かせて乾燥させた木材を使います。そうして出来上がる作品も、一分の隙もないような完璧なクオリティーと堅牢さがある。これは本当に素晴らしいことで、私たちもそんな輪島塗に惹かれてこの道に入った身ですが、「これだけでは、輪島塗を残していけないんじゃないか」と思うことが、実は地震前からありました。
YUKAKUとして初めて輪島朝市に出展させていただいた時、「“輪島塗”として自分たちが良いと思うもの」を自信を持って並べたのですが、一個も売れなかったんです。朝市という場所の特性や、そこにおける価格帯、店頭での見せ方ー‥など、いろんな理由が複合的に絡んでの結果だと思います。ただ「 “いいもの”を作ればいい」とずっと思ってきたけれど、それだけじゃだめなんだと思い知らされた経験でした。
技術があって、売れるもの、作っていて楽しいもの
そんなことを考える中で、大阪で開催されていた伝統工芸の職人さんのセミナーに参加したんです。その方のご実家は婚礼箪笥をつくることを家業とされていたけれど、今の時代なかなか売れない。そうかといって、業態をガラリと簡単に変えてしまうわけにもいかない。だからこそ「技術があって、売れるもの、そして作っている人が楽しいもの」これが大事だ、というお話でした。
その言葉がずっと頭の片隅に残っていて。展覧会に出す作品を考えていた時に、研修所時代に乾漆の勉強のためにたくさん制作していた丸い球がふと浮かんできました。「これで片口をつくってみたらどうだろう?」
そしたら、決して安い値段ではないにも関わらず、その片口は初日で売れたんです。しかも、ここで使っている技術は、伝統的な「輪島塗」と何ら変わらない。セミナーでおっしゃっていたのはこういうことだったのかと、身をもって実感しました。
また夫の方も、余っていた端材で作ってみたお皿が、お客さんに「面白い」と言われてすぐに売れたんです。「輪島塗」の伝統的な価値観からすれば、端材を使っている時点でB品にもならない「売ってはいけないもの」です。それが「面白い」と言われた、そのことに私たちは驚いて。
「もしかして“これ”だったら、輪島塗の技術を残していけるかもしれないし、『漆器を使う人』を広められるかもしれない」そう思ったんです。輪島塗ってやはり高級品ですし、購入できる方達もどこか限定されるところがあるように思います。でも私たちは、もっと自分たちと同じ世代の人たちにも漆器を楽しんでもらいたい。最初は「とにかく“輪島塗”が売れればいい」と思っていたけれど、そこにいくまでにはステップというか「階段」が必要なのかもしれない。だったら私たちがそのステップをつくろうと。
輪島塗は、「みんな」で作ってきたものだから
そういう意味では、地震前も今も、やろうとしていること自体は変わらなくて。皆さんのお家に「漆」のものが一個でも増えたらいいな、ということ。
でも状況は大きく変化しました。今回の地震で工房が壊れた職人さんもいれば、亡くなった方もいます。傾いた工房で仕事を再開されている逞しい職人さんもいらっしゃいますが、間違いなく職人さんが減った。120以上の工程がある輪島塗において、職人さんが歯抜けの状態になってしまっています。
「輪島塗」という言葉は、輪島塗の工程をきちんと踏んでいることはもちろん、「輪島でつくったもの」でないと名乗ることができません。けれどこういった状況においては、輪島塗を守るために「他の産地の力」もお借りしても良いのではないかと、個人的には思っています。
漆器の産地である「北陸」全体でなら、「輪島塗」という言葉も、技術もきっと残していくことができる。輪島塗を守るために、専門外の技術を学びに出ている輪島塗職人さんもいらっしゃいます。けれど一人ができることには限界があるし、私と夫の二人でも限界がある。だって輪島塗って「みんなでつくってきたもの」だから。それは今いる職人さんだけじゃなく、長い歴史と、何世代もの人々によって繋ぎ作り上げられてきた、大きな“世界観”だと思うのです。
「一部」として、切り離せないもの
地震が起きたことで輪島は本当に酷い被害を受け、私たちも一度全てを失いました。これは到底美談にできるようなものではありません。でも同時に、何もかも失って今までになかった視点を獲得できたことも確かです。
日本全国の沢山の人たちに助けていただいて、「輪島」だけにこだわるんじゃなくて、みんなと連帯しながら「日本の漆全体」を「世界」に広めていくような活動ができたら。もっと広い領域で「漆」を発信したい、そう思うようになりました。
また、私たちは皮や金工・陶器など、異素材と漆のコラボレーションに取り組んでいることもあって、「漆」だけに止まらず、今は「工芸全体」にまで意識が広がっています。
漆を作る人がいなくなると、道具を作る人も増えないし、その道具にも様々な「工芸技術」が詰まっている。工芸って全てが繋がっていて「ここだけ」って、切り離すことができないものだと思うから。
(取材:2024年6月)
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諸石優子|Yuko Moroishi
2004 足利デザイン工科専門学校 建築工学科 卒業
2008 石川県立輪島漆芸技術研修所 特別研修課程 専修科 卒業
2011 同 普通研修課程 蒔絵科 卒業
卒業前から輪島塗伝統工芸士(髹漆) 惣田登志樹氏に師事(~H24)
輪島漆工研究会入会
フリーで蒔絵、髹漆業受注制作開始
2015橋本幸作漆器店にて蒔絵業、勤務(2019 退社)
2018 YUKAKU優角 設立
高岡クラフトコンペティション2018 「福福」 奨励賞
2019 YUKAKU工房開設
テーブルウェア大賞・オリジナルデザイン部門「TAYUTA」入選
石川県デザインセンター選定商品 きもちとかたち「MINAMO」「HEN」「菓子刀」
2020 国際漆展・石川2020「福福」入選
2023 国際漆店・石川2023「まゆ」入選
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