インタビューvol.10 金丸修一さん
インタビュー
2023.06.19
岐路に立つ加賀友禅、問われる「着物」としての在り方
2023年5月17日、金沢市東山の龍國寺で「第79回 友禅まつり」が開催されました。「友禅まつり」は加賀友禅の始祖・宮崎友禅斎の命日に、その遺徳をしのぶ法要と合わせて開催され、加賀友禅の作家や染物屋などの業界関係者が毎年参列します。しかし、「その規模も参列者も減少しているのが現状。加賀友禅は今一つの岐路にあるのだと思います」と、友禅斎史跡保存会の金丸修一会長は語ります。今回は友禅まつりの様子や、加賀友禅の魅力、そして加賀友禅をとりまく現状についてお話をうかがってきました。
加賀友禅職人・作家が集う「友禅まつり」
五月晴れの空に爽やかな風が吹き抜ける午後、79回目となる「友禅まつり」が開催されました。まつりは宮崎友禅斎の墓碑に手を合わせる墓前祭から始まります。宮崎友禅斎は1712年に京都から金沢にやってきた人気絵師で、斬新な絵柄の「意匠」、友禅糊など「技術」の定着からも、加賀友禅の発展に大きく貢献した人物として知られます。
そして、追悼法要の前に行われる「筆供養」。友禅職人や作家らが使用済みの筆を焚き上げる催しです。しかし年々集まる筆の数が「目に見えて減ってきている」と金丸さんは憂います。
「それだけ職人や作家又、仕事が減ってきているということです。友禅まつりも、私が参加し始めた40年前は、それはそれは賑やかなものでした。芸者さんも呼んで、もう大宴会でしたね。作家達も『昼からお酒が飲める』と楽しみにしていたものです。それが段々規模も小さくなり、簡略化されてきました。その後この筆供養が始まったので、割と新しい風習なんですよ」。
失われた風景、浅野川の「友禅流し」
友禅まつりの規模の縮小や、筆供養に集まる筆の減少に象徴されるように、加賀友禅の業界自体が、今大変厳しい状態にあると金丸さんは話します。
「浅野川界隈、特に材木町や味噌蔵町校下には、40年ほど前には染物屋さんが何軒もあって、作家さんや職人さんお弟子さんたちも100人以上はいたと思いますよ。人間国宝になられた木村雨山先生はじめ、重鎮の先生方がこの界隈に住んでいらして、そこにお弟子さんも沢山いました。天神橋から浅野大橋にかけて、浅野川では毎日『友禅ながし』をしていて、私はその風景を見て育ちました」
「友禅流し」とは、反物の制作工程でついた余分な染料や糊を洗い流す工程です。かつては自然の河川でこの作業を行うことが慣例でしたが、「加賀友禅染色団地(※)」で、屋内の人口の川で作業をすることが可能になったことを一つのきっかけに、友禅工房の郊外化も進み、浅野川での友禅流しの風景は5年ほど前から見られなくなりました。
(※)加賀友禅染色団地‥金沢市専光寺町にて1970年に竣工した、加賀友禅の全工程を一貫して行える共同作業場。
「浅野川界隈には、今では数件の工房しか残っていません。ですから私らが“最後の砦だ”という想いで続けています。しかし、多くの染物屋さんが移っていかれた染色団地も、現在営業されている組合員も少なくなったと聞いています。ですから、加賀友禅は皆さんの想像を絶する現場にあると思います」
「普段の着物」から「高級着物」への変貌
しかしなぜ、加賀友禅がこのような苦境に立っているのでしょうか。日本人が着物を着なくなって久しく、和装業界全体が厳しい状況にあることは言うに及ばないとしても、バブル期には「仕事が次々と舞い込んできた」という繁忙ぶりを見せた加賀友禅。その時代時代における変遷について、金丸さんにうかがいました。
「うちは私で三代目になります。祖父の時代には単なる『染物屋』でした。その当時といえば、着物が“普段着”だった時代です。周りを見渡せば皆が着物姿で、古着になったら染物屋さんに行って新たに着物を誂(あつら)える、それが当然の時代でした。そして父が祖父の跡を継ぎ、決して楽ではないながらも染物屋を続けてきました。ところが父の代の後半あたりから、加賀友禅が脚光を浴びてきました。そして私が3代目として店を継いだ頃には“加賀友禅ブーム”というものが巻き起こります。昭和54年~64年にかけては、物凄い10年間でした」
「その人気に乗じて、“加賀友禅作家”が、急に増えたんですね。『これはどこかで区切りをつけなくてはいけない』ということで、加賀友禅に『落款登録制』が新たに導入されました。これは落款登録されている先生の下で7年修行(現在は5年)して、その先生または、組合員の問屋さんから許可を得たものだけが“加賀友禅作家”を名乗れるという制度です」
都市部からの需要も高かった“加賀友禅ブーム”によって高級志向・高価格化が進み、いつしか加賀友禅は「市井の人々が着ている着物」から「一部の人しか着れない高級品」というイメージへ、徐々にその立ち位置を変えていきます。
「加賀友禅の高級化・ブランド化が、良かったのか悪かったのか、もちろん一概に言えることではありません。それによって多くの職人たちが食べていけるようになった、という時代も確かにあったのですから。けれど、それが今はちょっと行き過ぎてしまった節もあるのではないかと思います。本来加賀友禅は、広く一般の方にも着ていただくものだったはず。私たちの世代は、黒留袖・色留袖・訪問着を、嫁入り道具として加賀友禅で揃えたものでした」
加賀友禅の本来の姿は「誂友禅」
だからといって、「廉価にする」ということが「加賀友禅を身近にする」ことに直結するわけでもありません。友禅ブームにより多くの着物問屋が加賀友禅に参入してきた結果、「高級化」とは真逆の「低廉化」の流れもバブル崩壊と同時に起こり始め、加賀友禅の二極化が進んでいるといいます。
「バブルが弾けた30年ほど前からですかね、とにかく“コストダウン”が叫ばれるようになりました。安くするためには、どんどん“間”を抜いていくしかない。そうすると加賀友禅にまつわる各業者が弱っていきます。
加賀友禅は図案作成に始まり、仮仕立て、下絵、糊置き、彩色、下蒸し、中埋め、地染め、本蒸し、水洗いに仕上げー‥と、10以上の工程を経て完成します。けれど、最近では“分業”を支えてきた職人たちが次々と廃業し、制作工程が歯抜けになってきた。ですから友禅をつくり続けたければ、『自分たちで全工程を担えるようにならなければならない』というところまで今きているのです」
「そして今度は“量産”ということがあるわけですが、受注枚数が多くても加工賃が圧縮されていれば、働いても働いても苦しい状況になる。量産化もまた難しい問題を抱えています。
祖父の代の着物の在り方、つまり、そもそもの『加賀友禅』の姿は、お客様一人一人と、染物屋が直接相談しながらつくる『誂友禅(あつらえゆうぜん)』にあったと思うんです。ご自身の好みはもちろん、娘さんや孫が生まれたらその子の成長への願いを込めて図案を考え、その方だけの一枚を誂える。加賀友禅は、いわばオーダーメイドの友禅だったと言えるのではないでしょうか」
“匂い”で分かる。風土が育む 柔らかな色調
ここで、ブームを巻き起こした加賀友禅本来の特徴・魅力というものはどこにあるのでしょうか。改めて教えていただきました。
「加賀友禅は、よく『京友禅』と比較してその特徴が語られます。京友禅が雅な公家の文化なら、加賀友禅には武家文化の質実さと繊細さがあると。様式としては『加賀五彩を使う』とか『金刺繍は使わない』、『虫喰い』や『外ぼかし』を多用する、といったことが上げられますが、実際には確固たる定義というものがあるわけではないんです。これらは“差別化”のために近年謳われるようになったことだと思います。
特に物や情報が激しく行き来する昨今、友禅における“境目”というのはほとんどわからなくなってきていますよね。逆にいえば、それだけ『作家の個性が自由に出ている』と言えるとも思います。落款を持っている作家が金沢で友禅を作れば、それは加賀友禅だと言えるのです」
しかし「“匂い”で分かる加賀友禅の違い、というものは確かにある」とも金丸さん。
「もちろんそれは実際に何かの香りがするという話ではなくて(笑)、纏っている“空気感”というのかな。加賀友禅の修行を積んできた者には直感的に分かる違いです。なんとなく“ぼっこり”とした柔らかさがある。それには一つ、独自の色彩感覚が関係していると思います。あえて“色を殺す”というのか、鮮やかな発色ではなくて、もう少し色を落ち着かせた中間色が加賀友禅には多く用いられています。それはやはりこの日本海の天候や湿度、そういった風土から育まれる色彩感覚だと思うんですよね。『加賀五彩』も、それらの色調を統計的に集約していった結果の貴重色として生まれた言葉なんです」
加賀友禅が抱える、後継者育成のジレンマ
加賀友禅が纏う、たおやかな色調や写実性。後継者不足が叫ばれる中でも、色褪せぬその魅力に惹かれ、就職と申し込んでくる若者は途切れることがないといいます。しかし「やりたいという子がいても、その子らの受け入れ先がないというのが現状です」と金丸さんは苦々しい表情を見せます。
「これが一番心苦しい悩みです。県内にとどまらず、都市部からも『加賀友禅をやりたい』と志を持った若い方達がいるのに、就職先がないんです。加賀友禅作家を名乗るには落款が必要ですが、その落款を得るためには最低5年間、落款登録者である先生の下で修行しなければなりません。けれど今、5年も正社員で雇える余裕のある工房は少ないと思います。この負のスパイラルからどうやって脱せるのか、我々は本当に知恵を欲しています」
新たなコラボレーションで、加賀友禅の可能性を探る
加賀友禅業界が厳しい状況にあっても、ただ手を拱いている訳にはいきません。加賀友禅の新たな可能性を求め、ゲームやエレキギターなど、異ジャンルとのコラボレーションにも積極的に取り組んでいます。
現在加賀友禅会館で開催中のゲーム『アズールレーン』と加賀友禅のコラボ展には、連日県外からも多くのファンが訪れていて「会館の前に列がつくことなんて、開館以来初めて」のことだとか。(※2023 年 10月1日まで開催予定)
「この業界にいると『加賀友禅』は、すでに名の通ったものだと思い込んでしまうけれど、一歩外に出ると案外皆さん知らないんですよね。名前は知っていても、どんなものかはご存知ない。だからこそ、新たな分野とコラボレーションして、もっと加賀友禅というものを広く知っていただこうと。コラボレーションでは、僕らも多くを勉強させていただいてます。ゲーム業界の方も、生き残るためにありとあらゆる戦略を立てていらっしゃる。その企画力には学ぶところが多いです」
また、名刺入れや鞄、帽子といった、加賀友禅の素材・技術で作る小物やグッズ制作にも取り組んでいます。
「今、着物はなかなか売れませんから。おばあちゃんが孫に『着物を買ってあげる』といっても、『現金がほしい』と言われる時代です。割に合わない部分もありますが、少しでも加賀友禅を知ってもらう助けになればと、こうして小物も色々と作っています」
「この人のためだけに作る一枚」を
「けれど本音を言えば、やっぱり『着物』を作りたい」と金丸さん。「そのために私たちは何年も修行をしてきたんですから」。新たなジャンルとのコラボレーションも、小物販売も、全ては『加賀友禅を後世に残すため』その一点に集約されます。
金丸さんは「友禅斎史跡保存会」の会長を務めながら、本業の金丸染工でも金沢に残る唯一の「悉皆業(しっかいぎょう)※」として、多くの職人へ仕事の差配やお世話もされています。
(※)悉皆業…着物にまつわる業務全般を取り仕切る業者、ないし職人。着物業界における“プロデューサー”的役割。
「自分は加賀友禅に出会って、加賀友禅に育ててもらいました。ですから、加賀友禅に対しては感謝の気持ちしかありません。今こうやって世話役をさせていただいているのも、感謝の“ご奉公”の想いでやっています。細々でもいい、加賀友禅には残っていってもらいたい。そして私個人としては『この人のためだけに作る着物』というものを作っていきたいと思います」。加賀友禅の行先を、私たちも今後注視して行きたいです。
(取材:2023年5月/撮影協力:加賀友禅会館)
==================
金丸修一 Syuichi Kanamaru
1954年金沢市生まれ 。1976年金沢美術工芸大学 日本画 卒業同年東京友禅作家、田島比呂子氏に師事1977年加賀友禅作家、能川光陽氏に師事1979年金丸染工に入社 金丸充夫に指導を受ける 現在三代目として 悉皆業及び制作にも携わり現在に至る
ほかの記事
OTHER ARTICLES