インタビュー vol.7 松田和傘店

インタビュー

2023.03.20

金沢和傘を “つなぐ者” 、その時代の使命

数ある金沢の工芸の中でも後継者が少なく、高度な技術ゆえに伝承が難しい伝統工芸は「希少伝統工芸」と呼ばれています。「希少」という言葉には警鐘の意味合いもありますが、その美しさ、技術の高さを称えているようにも思えます。

今回のジャーナルでは、金沢の希少伝統工芸の1つ「金沢和傘」にクローズアップ。正式な伝承者としては現在唯一とされる「松田和傘店」を訪ね、3代目を継ぐ松田重樹さんにお話をうかがってきました。

創業126年の「松田和傘店」。
「松田和傘店」3代目・松田重樹(しげき)さん。

「丈夫さ」から生まれた「美しさ」

竹・木・糸といった天然素材を使用した骨組みに、和紙を張って作られる「和傘」。長い日本の歴史の中で作り続けられてきた、美しき伝統工芸品です。しかし、一口に「和傘」と言っても「地域によって全く異なる」と、重樹さんは話します。

今回フォーカスするのは、金沢特有の気候風土の中で育まれた「金沢和傘」。その特徴はなんと言っても「丈夫さ」、そして丈夫さから派生して生まれた「美しさ」にあり、明治大正の最盛期には「金沢傘」と呼ばれ県外でも人気を博していました。その秘訣を重樹さんに尋ねると、「傘を見ながら話した方が早いね」と、実物を手に一つ一つレクチャーしてくださいました。

「まずはこの『天井ろくろ』という部分なんですけど、和傘の開閉動作で一番頻繁に稼働する、人間でいう“心臓”なんです。だから金沢和傘では、頑丈にするために和紙を四重貼りにしています。」

和紙を四重に重ねた天井部

「ほんで、傘の表面を見てもらったら分かると思うけど、張ってある和紙が大きくへこんで溝ができているでしょう?普通の和傘は、傘の大きさに合わせて、型で裁断してから和紙を貼るんですけど、金沢和傘は一枚の大きい和紙を、凹ませながら貼っていくんです。それによって和紙にゆとりが生まれるから、何回開け閉めしても無理がかからない。長持ちするわけです。ただ、金沢和傘は和紙にも頑丈な純楮の紙(※)だけを使っているので、非常に張りにくいわけやね。紙が硬くて、なかなか言うことを聞いてくれん」。

(※)純楮の紙…和紙の原料である楮100%で漉いた紙。通常は漉き易さを考慮して他の素材も混ぜることが多い。

和紙を張った後には、骨の脇をフリーハンドで切り出し、美しい正円を描く傘が誕生します。こうした絶妙な“塩梅”が常に求められる作業ゆえに、部品は機械で作ることができても、和傘を張る仕事は手作業でしかできないのだそう。
「まぁ作るのは大変やけど、その分丈夫な傘になるということやね。だから金沢和傘買ったらお得やと思うよ」と誇らしげな笑顔を見せる重樹さん。

竹骨の間にかなりゆとりを持って和紙が張られ、深い溝が生まれている。
一般的な和傘はこのような型で和紙を裁断した後、竹骨に貼っていく。

「金沢って日本でも有数の雨の多いところやがいね。雪も水気があってズシリと重たい。だから金沢和傘では、そんな雪にも耐えられるように、『小糸』と呼ぶ糸を張って、骨同士を連結させ、補強するんです」

金沢和傘を開くとパッと広がる、色鮮やかな「千鳥掛け」。今や金沢和傘を象徴する意匠となっていますが、こちらも本来は補強の目的で生まれた技術。「つまり補強でもあり、デザインでもあるわけやね」。
“丈夫さ”を求めた先に生まれた、構造的な“美しさ”。まさに「用の美」といえる、緊張感ある美しさが金沢和傘の真骨頂です。

鮮やかな木綿糸で組み上げる「千鳥掛け」
傘の縁にも、ステッチのように小糸が何重にも張り巡らされている。

さらに、頑丈な純楮の和紙の上に、防虫防腐効果のある柿渋や、秘伝の配合の油を塗り重ね、その上に漆で仕上げられる金沢和傘。傘のどの部分を見ても「丈夫さ」への飽くなき追求心が宿っています。

「昔、うちの親父が『金沢和傘は、使い方さえよければ半世紀もつ』と言っていて、僕は『紙と竹でできたものが半世紀ももつかいな』って思とったんやけど、実際に『50年使いました』『60年使いました』というお客さんが何十人と来られているんです。『ちょっと骨が傷んだので直していただけますか』と、みなさんとても大事に使ってくださっていて。親父の言っていたことは本当やったんやなと思いましたね」

重樹さんが三代目を継いだ時、常連さんが30年愛用していた傘をプレゼントしてくれたそう。

偉大な職人を父にもち。

重樹さんの父であり、今は亡き松田和傘店二代目・松田弘(ひろし)さん(享年95歳)。同業者が皆廃業していく中、金沢和傘の技術を一人守り抜き、金沢の工芸界でその名を知らない人はいない“名人”でした。「子どもの目から見ても、神がかっとった人やね」と重樹さんも振り返ります。
そんな父の背中を見て育った重樹さんは、小学生の頃には自然と「千鳥掛け」をマスターしていたそう。「別に覚えようと思ったわけじゃないんやけど、横で見とるうちに覚えてしもとった。子どもって本当によう見とるもんやね」。

多くの有名人が贔屓にしていた弘さんの和傘。店内に飾られる弘さんの写真。
金沢和傘への功績を讃える賞状がずらりと並ぶ。

「親父に『店を継げ』と言われたことは一度もなかったけど、子どもの頃から『継がんなんかなぁ』とはどこかで思とったわね。特別にやりたいこともなかったし国家公務員になったけど、だんだん親父も年とるし、兄貴も出世して帰って来んしね。ほやし『もう俺がせんなん』と決心して会社辞めたら、『出ていけ』と親父に勘当されて。それが半年ほど続いたかな。今でこそ笑い話になるけど、当時はしんどかったね(笑)。
親父もこれは一回やらせてみんとこいつは諦めんと思ったんやろね。勘当が解かれて、一緒に作業し始めたんです。そして一年半が経った頃、『いかに儲からんか、わかったやろ』って親父が僕に言うんです。いや、でも実際本当にそうやった。
朝の8時から18時まで土日祝日関係なく働いて、休みといえば盆と正月くらい。座り仕事やし腰だって痛くなる。ほんで次々に傘が売れていけばいいけど、月に一本くらいしか売れない時期もあった。『これは…大変やな』と、その頃には身をもって感じていました」

父・弘さんが、ここまで厳しく反対したのには、自身も一度、傘づくりを辞めようとした時期があるからだと重樹さんは語ります。

「初代の頃は、和傘は必需品やったわけです。どこのうちにも2、3本は必ずあるもんやった。それが洋傘が入ってきて、車での移動が増えて、和傘は全然売れなくなってきた。とても食べていけないし、子どもらだって育てていかんなん。『もう店は辞めよう』と思ったそうです。そんな時、たまたまイギリス人のお客さんがいらして、『この文化を無くしてはいけない。もし和傘が売れなくなったら、私が全部買い取るから』と言ってくれたそうです。親父はその言葉を励みにして、最後まで頑張ってこれたんだと思います」

「いつもお客さんに助けられてやってきた」と重樹さん。県外客が売り上げの8〜9割を占める中、コロナ禍で売り上げがゼロになった月もあったが、金沢和傘を愛用している著名人が宣伝してくれ、なんとか乗り切れたという。

「今も『弟子入りさせて欲しい』とおっしゃる方がよくおいでるんですけど、基本的に全部お断りしているんです。だって食べていけんもん。この世界は大袈裟に言うたら『サラリーマンの倍働いて、サラリーマンの半分当たるような世界』やからね。親父がずっと一人でやっとったんはそういうことなんやわね。とてもじゃないけど、一人でやらんとやっていけん。僕自身は今でも完全ボランティアみたいなもんですけど、働いとる子にはちゃんとお給料あげたいから頑張っていますがね」

金沢和傘が“絶滅危惧種”になる時代を予見して

最盛期には、金沢に118軒あった金沢和傘店も、現在制作を続けているのは松田和傘店を一軒残すのみ。苦境に立っているのは金沢和傘に限ったことではなく、全国的にも和傘屋の廃業が続いています。そしてその連鎖は、傘づくりに欠かせない「柄」や「骨」、「ろくろ」と言った部品、そして和紙などの素材をつくる現場にも広がっているそう。
「和傘の一大産地だった三重県の伊賀上野でも、世界を股にかけてお商売されていた大きな和傘組合が解散されました。その時に、使っていた道具の一部を私たちに譲ってくださったんです」

店の奥の蔵には、伊賀上野の和傘店から譲り受けた道具が大切に展示されている。

「こういう時代がくることを、親父は予見しとったんでしょうね。要は、金沢和傘が“絶滅危惧種”になる時代が。部材を作るところも段々なくなって行くだろうと。だから、ろくろにしても、骨にしても、余分にたくさん作らせてあったんです。それも、それぞれが技術を競い合って勢いがあった時代の、良い品を。今はろくろも骨も、岐阜に一軒ずつしかありません。だから今でもうちには部材も材料もいっぱい残っとるんです。和紙にしても、混ぜ物をした和紙もどきなら劣化して行くけれど、本当に良い紙というのは劣化するどころか、なお良くなっていくんです。」

和傘の天井部につく「天井ろくろ」。和傘において欠かすことができない重要なパーツ。

金沢和傘の、「一貫生産」に挑む

「私の代でその部材全てを使い切ってしまうということはないでしょう。親父がそれだけのものを遺していってくれたということやね。けれど、僕の後のことを考えて3年前から『うちで全部作ろう』と。骨もろくろも、柄も全部。

もともとは親父も、全部自分で作っていたんです。作れらいけど、これを全部自分で作ったら、ものすごく時間がかかるでしょう。一本30万円とかで売らんと割に合わんくなってくるわけです。ほやし今まで『餅は餅屋』にお願いしとったけど、それが成立しなくなってきた。これからは全部自分で作らんと、金沢和傘を残していけない時代になってきたわけです」

2020年には、店舗の隣に新たに工房も設けた。傘の部材は細かく細分化されるため機械も導入予定とのこと。

命を削って、傘に命を与える

傘の部品は機械で作ることができても、傘を張る作業は今でも全て手作業。どんなに手が早くなった職人にも、絶対的に圧縮できない時間がそこには横たわっています。工房の畳の上にあぐらで座し、傘だけを見つめて黙々と作業を続ける重樹さん。サラリーマンから職人に転身し、実際和傘を作っていて感じることを尋ねると、「正直言うと、作るたびに、命を削られるような感覚」とちょっと意外な答えが返ってきました。
「何せ金沢和傘はとにかく手間がかかるわね。傘によっては一本に1,2ヶ月かかることもある。作っとる間は集中しとるからいいんやけど完成したら体にグタッとくるんです。ものすごく神経を使う仕事やからね。取り掛かる前に『またあの思いするんか…』ってしんどくなるときもあるわね」。

「普通の人は、もっと前向きなんやろうと思うけど」と笑う重樹さん。しかし、一度和傘を開けば、その言葉の意味が自ずと腑に落ちる。命を削って、傘に命が吹き込まれていることが、細部からまざまざと感じられるからです。

工房で作業をする重樹さん。

金沢和傘を残していくために、新たな「体制」をつくる

事業の継続には売り上げは必須。しかし金沢和傘においては、量産することも、また生活必需品として返り咲くことも難しいのが現状です。「あなたの周りに、和傘を差している人おるけ?」と重樹さん。だからこそ、金沢和傘を後世に残していくためには「独自性」が重要だと語ります。

「丈夫である、と言うことは大前提にあるとして、“美術品”みたいな立ち位置も築いていけたらと思うんです。和傘って微妙な立場で、焼物や着物には何百万と言う値がつくことがあっても、和傘はせいぜい高くて10万円。材料費と手間がかかる割にね。だからこそ、使うだけでなく、見て楽しむ“作品として傘”があっても良いのではないかと」

新設された工房には、重樹さんが「美術品」としての和傘の在り方を模索し、多くの有名作家や巨匠とコラボレーションした和傘が、色鮮やかに広がっていました。

父の反対を押し切って金沢和傘を継ぐ道を選び、そして後世へ金沢和傘を残すための基盤づくりに尽力している重樹さん。新工房の機械購入にも、多くの私財を投げ打っています。

「僕自身、一生懸命に傘作りに取り組んではおるけども、本来自分は『つなぎ』の役割なんやと思っとるんです。次の人達が傘づくりを続けていけるような体制だけは残していきたい。せっかく100年以上続いてきた金沢和傘やからね、きちんとした形で繋いでいけたら。」

その時代において、工芸に求められるものが変わるように、作り手も代によって担うべきその役割もまた変わってくるのかもしれません。一朝一夕には変わることない時代の流れに日々格闘しながらも、重樹さんは今日も現場で、金沢和傘を後世に残すために模索を続けています。

(取材:2023年2月)

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松田重樹 Shigeki Matsuda
1959年金沢市生まれ。国家公務員として働くも、 金沢和傘の名匠であった父・松田弘氏の後を継ぐことを決意。2016年「松田和傘店」の3代目に就任 。
Instagram:https://www.instagram.com/matsuda_wagasa/

取材協力 金沢市経済局クラフト政策推進課

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