インタビュー vol.38_川本敦久さん(金沢卯辰山工芸工房 館長)

インタビュー

2026.08.31

金沢工芸の気風を未来へ、卯辰山から羽ばたく次代の作家たち

【目次】
・次世代の工芸作家を育てる、国内有数の研修施設
・歴史的工芸品から辿る、工房設立の経緯
・さまざまな技術が連関し合い、成り立つ「工芸」
・御細工所の職人の特権と矜持
・武具の保守管理から「美術工芸」への大転換
・金沢の工芸を支えた技と装飾美
・京都は「雅」、江戸は「粋」、金沢は「品」
・伝統的美意識を体得するための「兼芸」
・自治体としての、工芸への支援
・工芸を再興していく気概が宿る地で
・「研修生」ではなく「研修者」
・「ものをつくって生きていく者」の道
・次の30年に向けて、金沢卯辰山工芸工房の使命

国内外で活躍する作家を数多く輩出している「金沢卯辰山工芸工房」。平成元年に設立され、今年で38年目を迎えます。当ジャーナルでもこれまで数多くの研修者や修了者のインタビューを掲載してきていますが、今回は同館館長の川本敦久(のぶひさ)さんへのインタビューです。工房が設立された経緯や歴史的なミッション、今後の金沢の工芸への展望などについて、お話をうかがってきました。

川本敦久館長。今年で同館館長15年目を迎える。インタビューは金沢卯辰山工芸工房にて
金沢卯辰山工芸工房。山の地形に沿うように建てられた建物は、地上2階と地階からなる

次世代の工芸作家を育てる、国内有数の研修施設

金沢市東部、緑豊かな卯辰山を登る道中に佇む「金沢卯辰山工芸工房」。陶芸、漆芸、染、金工、ガラスの5分野における専門設備と専門員が揃う、次世代の工芸作家を育てる国内有数の研修施設です。

美大の卒業生や大学院修了生、社会人経験者など、さまざまな経歴を持つ人々が、「作家」としての独り立ちを目指し全国から集結。技術の習得だけでなく、“表現”を追求する場でもあることが同館の大きな特徴で、高倍率の試験に合格した研修者たちは、奨励金のサポートも得ながら、通常2年・最長で3年の間ここで研鑽を積むことができます。

「卯辰山」は、金沢城から見て卯辰(東方)の方角にあることから名付けられたとされる

作家育成のためのプロフェッショナルな施設として、どこか近寄りがたいイメージもありますが、貴重な歴史的資料や、在籍する研修者や専門員の作品が展示されている「資料室」は、一般の人でも見学が可能です。(平日9:30~16:00 ※大人数や、工房などの視察目的を兼ねる場合は要事前予約)

2階にある資料室

取材時、エントランスで迎えてくださった川本館長。「まずは資料室に行きましょう。そちらをご覧いただけたら当工房の“経緯”というものもご理解いただけると思いますし、工芸はものを見て話さないことには始まりませんから」と、すぐさま資料室に案内してくださいました。

京都出身の川本館長。「トータルすると人生の中で金沢にいる時間の方がよほど長いんですが、イントネーションだけはなかなか抜けないものですね」と笑う

歴史的工芸品から辿る、工房設立の経緯

ーーこんなにも充実した資料室が併設されていることに驚きました。

川本館長(以下川本):まずここをご案内したのは、金沢市がなぜ「卯辰山工芸工房」をつくったのか、その経緯をご理解いただくためです。

ここは平成元年(1989年)に設立され、38年目を迎えます。平成元年は、「金沢市政100周年」という節目の年で、この機に未来に向けてどういった事業を行うか地域の文化人たちで議論した結果、「やはり工芸ではないか」と。金沢は江戸時代から工芸が盛んで、それが今も文化の底流にある茶道と共に、金沢の素養となっている。その工芸を将来も発展させていくためには、何よりも「人」を育てることが肝要だと。そこで、工芸の人材を育成する施設の計画が立ち上がりました。

資料室では解説パネルと、貴重な作品が展示されている

さまざまな技術が連関し合い、成り立つ「工芸」

川本:金沢には藩政時代に『加賀藩御細工所」が設置されていました。御細工所には、紙細工、針細工、漆細工…と、24もの職種が技を競い、武具等の制作にあたっていました。工芸品というものは、一つの職種だけで成り立たないものがたくさんあります。いくつもの技術が連携しながらものが出来上がっていく、だからこそ御細工所では、同じ建物の中で職人たちが協力し合いながらものづくりをしていたんです。さまざまな工芸ジャンルが一つの場に集まっているという点でも、当館と似ています。

城内に設けられていた「御細工所」。その後度重なる火災で移転し、最終的には城外に移った
御細工所に集っていた24業種

川本:現在の金沢卯辰山工芸工房も、「陶芸、漆芸、染、金工、ガラス」が集まっており、互いに吸収し合い、情報交換をしています。工芸というのは、扱う技術や素材によって「制作への考え方」そのものが異なります。柔らかいものを扱う人と硬いものを扱う人、制作過程での時間の長短や思考の数々‥。それぞれの視点や考え方を交換し合うことも、ものづくりの参考になっていくんです。

一人で制作していると、どうしても発想が固まってしまいがちです。だからこそ、伸び盛りの時期にさまざまな専門の人々が集う場で研鑽を積むことで、考え方の幅も広がる。「工芸」というと「一つを極める」という側面もありますが、実際にはいろいろなものが連関し合って成り立つ分野でもあるのです。

御細工所の職人の特権と矜持

ーー御細工所のあり方が、現在の卯辰山工芸工房の仕組みにも受け継がれているのですね。ちなみに御細工所は藩の中でどのような位置付けだったのでしょうか?

川本:御細工所は、奉行が管理監督をしていました。今の役所で例えるなら「部局」のようなもので、藩主に直結する重要な部門だったんですね。御細工所で働く職人の俸禄は、御家人より高かったと聞きます。

一方で、その分、厳しい実力社会でもあったのでしょう。腕が落ちれば、すげ替えられることもあったでしょうし、特殊な技術などは一子相伝で厳密に管理していく重責もあったわけです。

御細工所で働く職人が着用していた羽織

武具の保守管理から「美術工芸」への大転換

ーーそもそも御細工所はどういう目的で設置されたのでしょうか?

川本: 加賀藩において、御細工所は当初「武器武具の保守管理」をしていた小さな組織でした。展示の冒頭で「武具」を並べているのは、その始まりを感じていただくためです。
当時はまだ、大坂冬の陣・夏の陣の時代です。しかし、徳川が世を治めるようになり、世の中が平和になっていく中で、三代藩主・前田利常公が、武具の保守管理を行っていた組織を、「美術工芸」をつくる部門として再編します。武具は「命に関わるもの」ですから、その保守管理を担う技術には相当高いものがある。そういった技術を「美術工芸」へと生かしていこうとお考えになったのではないでしょうか。

展示動線の冒頭に展示されている鎧や槍や鉄砲などの武具・武器
間近で眺めると、その緻密な技術が見て取れる

川本:技術力が高いとはいえ、「美術工芸へ転向せよ」と急に言われて出来るものではありませんよね。そこで藩主はまず、江戸や京から著名な文化人をブレーンとして呼び寄せて、自身が勉強することから始めました。そして、優秀な技術者も江戸や京から招き、美術品としての工芸をつくる術や装飾表現を職人たちに伝えて行きました。そこから、金沢の工芸は「美術工芸」が主軸になっていきます。

金沢の工芸を支えた技と装飾美

ーー武具の保守管理から美術工芸へと発展していったことが、金沢の工芸の特徴にもつながっているのでしょうか。

川本:そう言えると思います。金沢の工芸技術は、加賀象嵌にしろ、加賀蒔絵にしろ、加賀友禅にしろ、基本的には「装飾技術」です。となると「装飾とは何のためにあるのか」という話に行き着きます。例えばこの鐙(あぶみ)。装飾がなくても機能は果たすのになぜ装飾を施すのか。そこを考えなくてはなりません。

加賀象嵌の技術でつくられた鐙(あぶみ)。馬に乗る際に、足を踏みかける馬具
風神の目貫。裏面にも雷神の目貫が

川本:この刀の目貫(※)には風神雷神が描かれている。「風神雷神」は圧倒的な強さを持つ神々とされています。そういったものを身に着けると、やはり「気持ち」が違いますよね。そういった精神性に、審美性も兼ね備えている技。実用としての技術に美的要素が際立った工芸が、金沢の特徴だと言えるでしょう。

※目貫(めぬき)…柄の表と裏に配置される小さな装飾用の金属金具。もとは柄と刀身を固定する目釘の役割を兼ねていたが、時代とともに刀の装飾品に発展した。

加賀様式の兜。前立は猪の目(金猪目は直臣を示す)実戦を意識した頑丈な作りと豪華な装飾を特徴としている

京都は「雅」、江戸は「粋」、金沢は「品」

川本:京なら「雅」、江戸では「粋」と言うように、それぞれの地の美意識を表現する言葉があります。では、金沢はなんだと思いますか?金沢は京と江戸どちらからも人を招いていて、両者のエッセンスが入っている。そして、雅は公家の文化、粋は町人の文化に対して、金沢は“武家の文化”です。だからこそ私は、金沢の美意識は「品格」、つまり「品」にあるのではないかと思っているんです。

川本:「工芸」は英語で「Craft=手技・技巧」と訳されますが、金沢の工芸は、技術だけでなく歴史や文化がそこには多分に含まれており、Craftという言葉では、表現しきれないものがある。当館も「Kanazawa Utatsuyama Kogei Kobo」という表記を採用しています。また金沢市の「銀座の金沢」も「KOGEI Art Gallery」と冠しているように、「KOGEI」という文化を体現するものとして世界に向けて発信していく、そういった気概もそこには込められています。

加賀蒔絵の祖。名工・五十嵐道甫の作品。モダンな構図には現代でもハッとさせられる
加賀藩御細工所作の「梅鉢紋散唐草蒔絵鼻紙台」

伝統的美意識を体得するための「兼芸」

ーー技術だけでなく、文化性や品格も重視されていたのですね。

川本:ここに「兼芸」という言葉がありますが、これは御細工所の職人たちにとって、もう一つの「仕事」でした。本来の工芸技術のほかに、能楽の鍛錬も職人に義務づけられていたのです。

「兼芸」職人の教養を高めると同時に、藩主の能の相手を務める人材を育てるという目的もあったとされている
舞台でも使用されていた能面

川本:「能」は、いわば武士の美意識の最高峰です。その能を自身で実践することによって、そこに流れる美意識を体得し、ものづくりにも反映させていったと考えられます。そのため「兼芸」は当工房のプログラムとしても踏襲されており、研修者は専門を問わず、茶道や華道、書道などを必ず学ぶことになっています。

工房内に設けられた茶室「流芳苑」。2年に一度、研修者の作品でしつらえる公開茶会は、すぐに満席になるほどの人気
習字の課題。お礼状や箱書きなど、さまざまなシーンで作家は筆を取る必要がある

自治体としての、工芸への支援

川本:そうして職人自身に文化的な蓄積があったからこそ、明治に変わり、御細工所がなくなった後も、金沢では「美術工芸」をつくり続けていくことができたのだと思います。
そして、自治体として博覧会への出品など、力強い“後押し”があった点も重要です。ちょうどジャポニズムの時期と重なったこともあり、加賀の工芸品は珍重され、今日まで技術をつなぐことができた。

現在の金沢市にもその気風は受け継がれていて、工芸文化に対して、きめ細かな政策がなされています。「クラフト政策推進課」を設け、「人に対する投資」を絶やさずに、時代に合わせた施策がしっかりとされてきた。その一角を成す金沢クラフトビジネス創造機構は「マネジメント」を主体にしていますので、うちもさまざまな面でサポートいただいています。今相当忙しくされているのではないでしょうか(笑)

工芸を再興していく気概が宿る地で

川本:こちらに春日山窯で作られた九谷焼があります。古九谷が途絶えた後、加賀藩の焼き物の再興を目指し卯辰山の麓に作られたのが春日山窯です。

ーーあぁ、春日山窯も卯辰山にあったのでしたね。

川本:そうです。金沢市が作家の育成施設をどこに建てるのか議論した際、やはり由来がある土地がいいだろうということで卯辰山になったと聞いています。山の斜面に建てたので、ちょっと不思議なつくりになっているのはそのためです。館内を歩いているだけでも、いい運動になりますよ(笑)

春日山窯の器。京都から陶工・青木木米を招き、卯辰山に「春日山窯」を作らせた

川本:見てください、こちらの皿に描かれている文字、何と読むでしょう?これは「さきがけ」ですね。春日山窯は藩営から民営となり13年余りしか続きませんでしたが、再興九谷の狼煙をあげた最初の窯としての使命と、その気概を感じます。

「魁」と描かれた「色絵魁鳳凰図呉須赤絵写大鉢」

川本:今は「伝統」と呼ばれているものも、その当時は「革新」だった。ものづくりというのは、常に変わりゆく時代に向けて「新しいもの」に挑戦していくということであり、単なる「再生産」ではないということです。

そして、新しいものを生み出すためには、「古いもの」も知っていなければならない。今年の春に東京国立博物館で開催された、前田家伝来文化財の展示(※)も素晴らしかったですよね。「百工比照」をはじめ、「後世へ伝える」という強い意志を感じました。

新たな時代に向けた「ものづくりの気風」が金沢には醸成されていて、それが都市計画や文化性にも影響を与えながら、街の発展を支えてきた。私はそう思っています。

(※)前田育徳会創立百周年記念 特別展「百万石!加賀前田家」/2026年4月14日(火)~6月7日(日)

「研修生」ではなく「研修者」

ーーそうした金沢のものづくりの気風は、現在の研修者たちの育成にもつながっているのでしょうか。

川本:では、ここからは工房棟を少しご案内しましょうか。陶芸、漆芸、染がそれぞれ定員5名で、ワンフロア。そして陶芸とガラスはそれぞれ定員8名で、同階下フロアです。

漆芸工房

川本:当工房には「カリキュラム」というものはありません。「ここは学校ではない」ということは、はっきり申し上げていることなんです。作家を目指すならば、「習ったこと」だけをやっているようじゃダメなんです。自分で自分を育成する力を育てていかなければなりません。だからここでは「研修生」ではなく、「研修者」と呼んでいます。

金工工房

「ものをつくって生きていく者」の道

川本:工芸の場合、技術がないと「表現」を形づくることができません。どちらが先ということはなく、素材、技術、表現ー‥それらの要素が互いに響き合いながら、作品が生まれてくるわけです。スタイルや作風というものも、作家自身の試行錯誤の中からしか生まれてこないのですから。

ものをつくって生きていくならば、最終的に自分で全ての物事を決めていかなくてはなりません。そしてそれは「いつ終わる」ということもない。ものづくりは終生続きますから、重鎮作家であっても悩まれる、ここはそういう世界なんです。

「考えたことは紙に書くこと。アイディアスケッチは絶対捨てないこと。それがいつか自分の助けになると伝えています(川本館長)」

次の30年に向けて、金沢卯辰山工芸工房の使命

川本:金沢卯辰山工芸工房も、設立30周年を機に老朽化した設備のリフォームを行い、令和元年(2019年)に再スタートしました。次の30年に向けて新たに立てた目標が「育てる、つなぐ、発信する」です。

「育てる」は、これまで行ってきた「人材の育成」をさらに発展させていくということ。「つなぐ」は、世界とつながるということです。創造都市や姉妹都市を対象にした、アーティスト・イン・レジデンスを行っており、長い人では半年ほど滞在して、KOGEIを学んで帰ります。そして「発信する」は文化都市金沢の品格あるものづくりを発信してゆくことは金沢という街を知ってもらうことにもつながります。

もちろん「発信する」は、「育てる」「つなぐ」があって成立するものなので、すべては連関し合っています。

エントランスの正面に設けられた展示室
研修者や専門員の作品が展示されており、ギャラリストとビジネス面での関わりを生む接点にもなっている

ーー最後に、金沢の工芸の未来を館長ご自身はどのようにお考えですか?

川本:すごく大きな質問ですね(笑)。でも私としては心配していません。金沢には金沢美術工芸大学や当工房のような施設もあって、要である「人」がしっかりと育っていますから。

そして何より、金沢卯辰山工芸工房を修了した皆さんが、国内外で活躍して「金沢・卯辰山」の名を広めてくれています。こんなに頼もしい“広報マン”はいませんよ。アートフェアなどでも、大勢の元研修者が出品しているので、一度行ったらなかなか帰ってこられないくらい(笑)。皆さん作家として自活し、活躍される姿をとても嬉しく眺めています。

日本の工芸をいかに高め、世界に発信していくか。そういう視座を持って育成にあたることも、これからの金沢卯辰山工芸工房の使命だと感じています。

(取材:2026年7月)

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<Profile>

川本敦久 Nobuhisa Kawamoto

金沢市卯辰山工芸工房館長。金沢美術工芸大学名誉教授。1946年京都生まれ。 金沢美術工芸大学卒業。大阪のデザイン事務所でテキスタイルデザイナーとして働く。金沢美術工芸大学工芸科の教員を37年間務め、2012年に金沢市卯辰山工芸工房館長に就任。

金沢卯辰山工芸工房HP:https://www.utatsu-kogei.gr.jp/

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